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3880. 自分自身を読み解くことと書くこと


先ほどふと、人を白痴化させる現代の種々の道具と仕組みと距離を置き、それらに左右されない形で、自分の取り組みに従事し続けていくことの大切さについて考えていた。人間を白痴化させるツールに関して挙げればきりがなく、テレビに始まり、現代においては動画サービスやソーシャルメディアに至り、本当に無数のものが存在する。

そのようなツールを活用しながら無為に人生を過ごしたくはないと改めて思う。人間を貶めるそうした道具、さらには白痴化を促す社会的な思想と仕組みには気をつけなければならない。

今日は本当に天気がいい。一切風が吹いておらず、裸の街路樹が堂々と立っている。

「裸の街路樹」と述べたが、ここ最近散歩をしながら発見していたように、もしかするとここからは見えないだけであって、実際にはそれらの木々にはつぼみが付いているかもしれない。今日も午後に散歩に出かける予定なので、その際にはまた木々の観察を行いたい。

書を読むことについて改めて考えてみると、書を読むというのは結局のところ、自分自身を読み解いていくことだと言えるかもしれない。正直なところ、他者の言葉を額面通りに受け取ったり、その言葉の意味を他者の視点のまま詮索しても何ら意味はないのではないかと思う。

書物を読むことによって真に自己を深めていくためには、書を読みながら、徹底的に自己を読み解いていくことが不可欠である。それを行って初めて、自分の内側から何かが開かれていくのだと思う。

書物に書かれた内容は、とにかく自分に引き付けて読む必要がある。極論をすれば、自分の関心のある事柄だけ、自分を惹きつける事柄だけに絞って書物を読む必要がある。

そうでないものを読んだところで、それは私たちを真に深めてはくれないのだから。むしろ、そのような形で行った読書は、単に死物と化した知識を増やすだけである。

それを増やすために読書に従事している人がいかに多いことか。自らに引き付けてなされない読書、そして自己を読み解くことが含まれない読書によって得られる知識は、実用に足ることはなく、むしろ、私たちの内側にある真実から自己を遠ざけてしまう。

自己を真に深め、しかもこの社会に関与していく際に役に立つ知識というのは、自己を読み解きながらなされる読書とそれに付随した実践行為を通じてしか獲得されえないものなのだろう。そのようなことを考えていると、自己を深めること、社会へ具体的な関与を行うこと、そして読書の三つがそれぞれ不可分の関係を構築していることに気づく。

それぞれを決して分けて実践してはならない。それらを絶えず一つの統一的な実践として行っていくこと。それを自らに課していきたいと思う。

今日も相変わらず、自分の内側に生起したことを言葉や音の形にする実践に従事している。言葉に関して言えば、一見すると何の変哲もない日常について日記を書き留めているだけなのだが、そこから思いがけない発見や気づきがもたらされることに改めて驚く。

書くことの恐るべき力を見て取ることができる。書くことは考えることであり、感じることであり、自己を発見することであり、自己を深めることもである。

書くということが何なのか。最近私は、そうした書くことに伴う本質的な何かに関心を持っている。

人間にとって書くことはどのような意味を持っているのだろうか。その主題については今後も考えを深めていきたい。

いずれにせよ、私は別に特殊な環境で特殊なことを行っているわけでは決してないのだが、そんな何の変哲もない日常生活の中で、日々文章を綴ることが止めどなく行なわれていることには驚かされる。そして、自分の人生に密着した、日々の生活に密着した文章を書き続ければ書き続けるだけ、自己の新たな側面を見出し、人生に対する新たな意味を見出し、自己及び人生が深まり、そしてそれらが開拓されていく姿には本当に驚かされる。

そのような姿を見ると、私たちは自分の人生からしか本質的な学びなど得ようがないことがわかってくる。フローニンゲン:2019/2/25(月)10:46

No.1717: Spring Humming

It seems to me that spring is humming.

It induces us to hum a tune. Groningen, 09:36, Tuesday, 2/26/2019

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