時刻は午前十時を迎えた。スクリャービンの優しいピアノ曲が書斎の中を流れている。
今日も晴天であり、平穏な一日がゆっくりと進行している。それは本当に緩やかに流れており、日常の事物全てが一つの川のように絶え間なく流れているのがわかる。
晴れ渡る空を眺めていると、心がますます穏やかなものになっていく。ふと窓の外を見ると、草花が春に向けて身支度をしているように思え、大変微笑ましかった。
起床直後に、今朝方の夢について覚えている範囲のことを書き留めていたが、それはあまり分量がなかった。その後、夢について幾分思い出すかと思ったが、それは期待外れに終わった。
だが、早朝にごくわずかであっても夢を書き留めておいたことに意味があるのだと思う。夢の中に現れていた一つ一つの感覚や情景を大切にしたい。それは意味の宝庫である。
そうした意味の宝庫に言葉を与えることは、即それらに居場所を与えることでもある。また、それらに言葉を与えることによって、それらは自分の内側に位置付けられていく。
自分の内側から生じた事柄に言葉を与え、それを自分の内側に再定義し直していくこと。おそらくそれは、発達の要諦の一つなのだろう。
内的感覚に言葉を与えていくという実践は、もはや呼吸を行うかのようなものになった。呼吸のように自発的にそれがなされていく。
呼吸というのはするものではなく、起こるものなのだ。内的感覚を形にしていくことは、私がそれをしようとしているというよりも、それが自発的に起こっていると述べることができる。
そして、こうした自発性は、発達の本質である。ここに、呼吸としての形象化実践と自らの発達が相互に関係し合っている様子を見て取ることができる。自分にできることは、そうした自発的な形象化の運動に抗うことではなく、それに身を任せ、絶えず言葉や音楽としての形を生み出していくことなのだろう。
先ほどふと、内側の音楽が聴こえてくるかのような日記を綴り、内側の言葉が滲み出してくるかのような曲を作っていくことに向けて、気持ちを新たにした。音楽と言葉、言葉と音楽。それらは双方不可分な関係を結んでおり、互いに影響し合っている。
日記に音楽的なものを含めようとするような作為や、音楽に言葉を含めようとする作為は失敗に終わるだろう。そうではなく、音楽と言葉が自発的に影響を与え合い、それが自然な形で表に出てくることを見守りさえすればいいように思えてくる。その実現に向けては、内側の形象化運動に忠実に従ってみるというのが方法としては良さそうだ。
これらから、昼食前の作曲実践を行う。その際には、ラヴェルに範を求めようと思う。
今週の木曜日から始まるパリ小旅行において、誰の楽譜を持っていくかは悩ましい。それはもちろん、嬉しい悩みなのだが、さて誰の楽譜を持っていくのが今の自分にとって望ましいのだろうか。
パリ市内の楽譜専門店で何かしらの楽譜を購入することになるだろうから、フローニンゲンから持参するのは一冊でいいだろう。最初候補に挙がっていたのは、モーツァルトの小作品集であるが、今改めて手持ちのラヴェルの楽譜を眺めると、この楽譜を持参することがふさわしいように思えてくる。
滞在先のホテルで、朝と夜の短い時間を使って作曲をする際には、複雑な曲に範を求めることはあまり好ましくないだろう。そうした観点で考えてみても、二冊あるラヴェルの楽譜のうちのこちらの一冊は、今回の旅の友にふさわしいように思えてきた。とりあえずは、この楽譜を第一候補としたい。フローニンゲン:2019/2/25(月)10:23