時刻は午後の八時に向かいつつある。このところ何度も述べているが、日が随分と伸びた。
季節が春に近づくにつれて、時間の拡張と空間の拡張の双方を感じ取ることができる。各季節には、固有の時間の流れがあり、それは同時に、空間の感覚密度にも影響を与えるのかもしれないとふと思う。
こうしたことが、ある場所の文化を醸成する条件になっているのではないだろうか。例えば、フローニンゲンの春には固有の輝きがあり、それは同時に、固有の時間感覚と空間感覚を伴っている。
フローニンゲンの街に育まれる文化というのは、そうした固有の感覚を母体としたものなのだろう。これは当然ながら、フローニンゲンのみならず、どの街にも当てはまることである。
その街の固有の時間感覚と空間感覚を味わうこと。これは、その街で生活をしていく上での楽しみの一つであり、逆に言えば、それをしなければその街で生活する意義は半減してしまうのではないかと思う。
今日も夕方に、近所のサイクリングロードにランニング兼ウォーキングをしに出かけた。晴れの日は、もうこれが習慣になっている。
折り返し地点までランニングをし、その後はゆっくりサイクリングロードを歩いていた。その際に、この夏から生活地を変える必要性を強く実感した。
今の私は、どうやら生活地を変えて、再び自己を変容させていく必要があるようだ。遍歴を好む私の魂は、今、生活地を変えようと再び動き始めている。
サイクリングロードを歩きながら、魂の希求と躍動をふつふつと感じていた。それに呼応するように、私もまた、生活地を変えることに対して、とても前向きであり、この夏からはまた新たな土地で生活をしたいと強く思う。
昨日の日記の中で、生活拠点の変更はある種の死であると書き留めていたように思う。今の私は、生活地を変えることによって引き起こされる死が必要なようだ。
ここで死ぬ対象は一体なんなのだろうか。私の魂は死なない。おそらく、死ぬ対象は現在の自分の自我なのだろう。
そうなってくると、私の魂は、現在の自分の自我の死を望んでいることがわかり、同時に私もそれを望んでいることがわかる。上述の通り、魂も私も、生活地を変えることを希求していることがそれを物語っている。
午後にふと、葛飾北斎とベートーヴェンがなぜあれほどまでに引っ越しを繰り返していたのかについて考えていた。北斎は、90年近い人生のなかで93回も引っ越しを行ったそうだ。
また、ベートーヴェンは56歳で生涯を終えるまで79回も引っ越しをしたそうだ。彼らの魂もまた遍歴を好み、彼らの魂は遍歴を通じて成熟を遂げていったのだろう。
私が北斎やベートーヴェンに親近感を覚えるのは、魂の性質が共通しているからなのかもしれない。
場所との縁が結ばれ、この夏から新しい場所で生活を送ることができれば幸いだ。フローニンゲン:2019/2/18(月)19:59
No.1696: Winter Memories
Winter memories are recollected spontaneously.
They seem to navigate a new self. Groningen, 12:22, Tuesday, 2/19/2019