時刻はゆっくりと午後三時に近づきつつある。午前中の青空はどこかに行ってしまい、薄い雲が空を覆っている。そして、木枯らしがフローニンゲンの街を吹き抜けている。
先ほど仮眠を取ったので、これから午後の活動に入っていきたい。具体的には、バッハのコラールに範を求めて作曲実践をし、昨日届いた、“Analyzing Schubert (2016)”を読み進めていこうと思う。
本書は、ケンブリッジ大学出版から出版されているだけあって、非常にしっかりとした内容を持つ書物である。今回が初読であることを考えると、細部に入り込むのではなく、まずは全体を把握するような読み方を心がけたい。
今朝方の日記で書き留めたように、昨年の年末に、ハーバード大学教育大学院(HGSE)の芸術教育プログラムに出願をした。仮にこのプログラムに受け入れられたら、教育大学院のコースを履修することも確かに楽しみだが、実はそれ以上に楽しみなのは、ハーバードの音楽科と哲学科のコースを履修することだ。
仮に渡米を果たしたら、そこでのプログラムの期間は一年であるから、その一年でできる限りの学びを得る必要がある。ただし、プログラム終了後に、OPTを活用してもう一年アメリカに残ることができることも忘れてはならない。
OPTとは、アメリカで学位を取得した外国人がアメリカで一年ほど働くことを許可するものであり、あるいは職を探すことを目的に一年間ほど滞在を許されるものだ。私はそれを活用して、一年目では履修しきれないであろう音楽科と哲学科のコースを可能な限り全て履修しようと計画している。
当然ながらこの計画は、芸術教育プログラムに受け入れられればの話であり、さらに、受け入れられたとしても、スイスではなくアメリカを選んだ場合に限った話である。とにかく、仮にハーバードで学ぶ機会を得ることができたら、学部レベルから大学院レベルにわたって、音楽理論と作曲理論の全てのコースを履修したい。
また、哲学科のコースに関しては、時間と空間の哲学に関するコース、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の一冊を精読する中で、プルーストの思想を理解していくことに焦点を当てたコース、ハイデガーの思想に関するコースを履修する予定だ。
音楽科と哲学科のコース以外では、戦争と組織犯罪に関する社会学のコース、宗教と資本主義の誕生に関する経済学のコースを履修しようと思っている。ビジネススクールやケネディスクールには、残念ながら関心を引くコースは一つもないようなので、教育大学院以外のコースにおいては、音楽に関するものを中心に、上記のようなコースを二年かけて履修していくことになるだろう。
それらの大半は、単位の取得を目的にしたものではなく、聴講という形になるだろう。仮にハーバードに受け入れられ、アメリカに行く選択をしたら、二年間の中で旺盛な探究をしたいと思う。
ふと先ほど、これまでの留学した時期を振り返っていた。最初に西海岸の大学院に留学をしたのは、25歳の時であった。そしてオランダに留学をしたのは30歳の時であった。
それらの留学を振り返ってみると、年齢ごとに留学を通じて体験されることが異なり、留学に持たせる意味が異なっていることに気づく。今回アメリカにせよ、スイスにせよ、そこで学びを得る際には、留学とみなされるのだが、私の中ではもはやそれは留学のようには思えない。
というのも、学術機関で学ぼうが学ぶまいが、継続して学習することが常態化されている現在においては、どこの国で、どのような形で学んでいたとしても、その本質が変わらないがゆえに、留学をするという感覚はもはや自分の中に全くないのである。
受け入れ先の国が私のことを留学生とみなすだけであり、それに付随する諸手続きが存在するだけだ。この夏からどこで何を学んでいるのかは不確定だが、どの国にいたとしても、私は何かを学び続けているだろう。
そして、どこで生活をしていたとしても、その学びをこの社会に還元する試みを継続させていくだろう。フローニンゲン:2019/2/9(土)15:08
No.1663: A Sweet Taste of Death
From now, I’ll read again one of Ernst Becker’s magna opera, “The Birth and Death of Meaning: An Interdisciplinary Perspective on the Problem of Man(1971)” and “The Denial of Death(1973).”