つい今しがた夕食を摂り終えた。時刻は午後の七時半を迎え、これから就寝までの時間を再び読書と作曲実践に充てていきたい。
夕食前にふと、私たちは音楽を聴くとき、さらには音楽を創造するときに至福さを覚える、というシュタイナーの指摘を思い返していた。まさに過去の偉大な作曲家が創造した曲を聴くときの至福さと、自ら曲を創造したときの至福さの二つが存在していることは、これまでの自分の体験を通じて明らかであった。
今はエマニュエル・シャブリエのピアノ曲を聴いている。シャブリエの作品群を聴く至福さの中で、これから読書を行っていこうと思う。
その前にもう少しだけシュタイナーの指摘について触れておきたい。ここからは、どのような小さな作品でもいいので、絶えず音楽を創造する至福さの中で日々を過ごしていこうと思う。それは確かに、自我が至福さを求めようとする特性の表れかもしれないが、爆発的な至福さの中で自我を溶解させていく試みに従事していく。
ここ最近は、ふとした時に、音楽が創造される源なるものが存在していることに気づき始めている。それは音楽を創造する根源的な世界であり、それは多分に、私という個人の中に広がる無限の無意識の領域のようであり、同時にそれは集合的な無意識の領域であるように思える。
はたまた、そうした個人的・集合的な無意識すらも超越したものなのかもしれない。いずれにせよ、音楽を生み出す源と究極的な一体化が果たされるまで曲を作り続けていく。そこに向けて日々の一つ一つの実践がある。
夕食を摂りながら、これまでは遠慮がちにごくわずかな数の曲しか一日に作ってこなかったことについて考えていた。確かに私は、専業の作曲家ではないし、ましてや作曲を仕事にしている者ではない。
その他の仕事や実践を持っているのが自分の今の姿だ。しかし仮にそうだとしても、一日に三曲や四曲しか作らないというのは全くもって怠慢なのではないかと思い始めている。
自分がなぜそのような微量の曲しか毎日作っていないのかというと、それは参考にする曲が枯渇してしまうことに対する懸念があったのだと思う。おそらく手元には、数千ほどの曲を生み出し得るほどの楽譜がある。
しかし、数千という数が極めて少ないことを懸念している自分がどこかにいたようであり、仮にそれらを全て参考にした後に、自分はどうやって作曲をしていったらいいのかわからないという懸念があったようだ。しかし、別に一つの曲を一度だけしか参考にしてはならないという決まり事などないのだ。
良書というものは繰り返し読めば読むだけ、新たな気づきと発見を私たちにもたらしてくれるように、曲に関しても同じく、自分を捉えて止まない曲は何度も参考にすればいいのである。自己が深まり、および自分の作曲技術が深まれば、次回同じ曲を参考にした際には、必ず新しい曲が創造されているはずだ。それは曲という創造物の原理であり、人間発達の原理でもある。
私たちは、二度と同じ川に足を踏み入れることはできない。その教え、そしてその事実は、そっくりそのまま作曲実践にも当てはまる。
確かに現段階では諸々の制約があるが、面白そうだと思った曲を手当たり次第に参考にしていこう。自分に響くものがある曲は一つ残さず逐一参考にしていく。
そして、数千の曲を一回りし、何度も同じ作品を参考にしていくという姿勢を持とうと思う。今夜からの作曲実践の楽しみがまた一段深まったように思う。
楽しみもまた深まりを見せるものなのだ。フローニンゲン:2019/2/4(月)19:47