昨日の夕日が極めて美しかったせいか、今もまた、その光景を思い出していた。オーロラのような赤紫色の夕焼けがそこに広がっていた。そして、一筋の飛行機雲がどこまでも伸びていく姿を眺めていた。
昨日は、五時半でもまだかすかに明るいことを驚き、随分と日が長くなったなと思っていた。今日は、それほど空を眺める機会がなく、それほどまでに自分の仕事に集中をしていたと言える。
強いてあげるとするならば、夕方に作曲実践をしている最中に、何度か空を眺めていたぐらいだろうか。
今日は計画通り、監訳書の翻訳の再レビューを終えた。注記を含めると、合計で26万字ほどあったため、レビューをすることは確かに骨の折れる仕事だったが、それ以上に実りがあるように思えた。
いかなる書物も、再読によって新たな発見を得ることがあると思う。それと同じことが、ウィルバーの書籍に対しても当てはまる。
ウィルバーの理論に対しては長らく親しんできていたが、そうであったとしても、ウィルバーの書籍からはいつも新たなことに気づかせてもらっている。今日もそうした体験が、レビュー中にあった。
明日は、以前自分が執筆した「はじめに」と巻末の解説文を読み直し、適宜追加修正を施して、レビュー済みの原稿と合わせて編集者の方に送ろうと思う。レビューの提出期限よりも一週間ほど早く送ることができて嬉しく思う。
今日はこれから本日最後の作曲実践に取り組み、その後、ハーモニーに関する書籍を少しばかり読み進めていこうと思う。ここ最近は、読書にほとんど時間を充てておらず、協働プロジェクト関係の仕事や監訳の仕事、過去の日記の編集と新たな日記の執筆、そして作曲実践に時間を充てている。
これまでは知識を獲得することに焦点を当てていたため、今このようにして知識を活用する事柄に多くの時間を充てることができているのは望ましいことだろう。こうしたことにも周期性があることを知っており、おそらく私は再び、どこかのタイミングで知識の獲得に集中する時期を迎えるだろうと思われる。
それがいつなのかという具体的なタイミングは全くわからないが、近々それがやってくることだけは分かっている。
明日は久しぶりに、かかりつけの美容師のメルヴィンと話をすることができる。昨夜の日記に書き留めていたように、ここからは、意識的にスーツを普段着として着ていこうと思う。
作曲実践において、良い響きを持つ音を探していくための実験をするのと同じように、スーツを普段着として着る実験をしていく必要がある。この点においても感性の鍛錬が必要であり、あれこれと自分なりの仮説を持って、スーツをいかように普段着として着崩していくかを模索していく。
原則として、インナーや靴をビジネス用のものにしないということを守り、あとは色の組み合わせなどを、着るスーツによって変えていく実験をしていく必要がある。それはさながら、和音を作る実験のようであり、あるいは、一つの調の中で七つの教会旋法をどのように適用するのかという問題とも似ている。
そのようなことを考えていると、外出することが幾分楽しみになってきた。かといって、スーツを普段着として外出するのは、今のところひと月に一回あるかないかなのだが。
つい先ほど、明日からスーツを普段着として着ていく際の候補を選んでいた。10着のうち、後半に作った何着かは、「企業人が着ないであろうデザイン」を主題として、店の担当の方と一緒に仕立てていったものである——かといって、それは過度に派手なものではもちろんなく、常に品を大切にして作った。
最初に作った3着は、企業人であっても着れるようなものなのだが、その時はベストを作り忘れてしまった。ワイシャツ姿でウロウロすることは、下着姿でウロウロすることと同義だということを知ってから——今の時代はそういう発想も持たれないのだろうが——、日本でスーツを着る時は、ベストと合わせて作った残りの7着のうちのどれかを着るようにしていた。
今後も、日本で仕事上スーツを着る際には、必ずベストを着用しようと思っているので、そうなってくると、普段着で着れるスーツは、ベストのない3着が有力候補である。先ほど、それら3着をクローゼットから引き出し、改めて眺めてみた。
やはり、オーダースーツもまた、一つの芸術作品なのだと思う。自分の名前が刺繍されているというだけではなく、ボタンのデザインや色、生地を含めて、その他もろもろの要素を自分で決めていったこともあり、目の前にあるスーツは、この世界で1着しか存在していないものなのだと改めて思った。
それはさながら、絵画における原画のような貴重な存在に思えた。そう考えてみると、手持ちのスーツに対してますます愛着が湧いてきた。
明日はぜひ、それら3着のうちの1着を着て外出したいと思う。フローニンゲン:2019/1/21(月)20:30