日記をたった今書き留めたところなのだが、もう少し何か言葉を外に形として残しておきたいという衝動がある。
先ほど、現代社会に蔓延している貧弱な人間観について言及していた。こうした貧弱な人間観は、直接的に教育を含めて、様々な領域に影響を与える。
一番わかりやすいのは教育の世界であり、貧弱な人間観の元には貧弱な教育しかなしえないのではないかと思う。あれこれと名前だけ科学的なアプローチを用いて考案された教育手法が、ことごとく浅薄なものに見えるのは、そこでは矮小な人間観に基づいた教育研究がなされていることに大きな理由があるだろう。
そして、そうした矮小な人間観に基づいて発見された事柄を元にした、貧弱な教育アプローチを採用していくことによって、教育はますます貧弱なものになっていく。端的に述べれば、人間を機械のように見なすような発想を元にした研究成果をいくら活用しても、結局、機械のような人間しか育むことができないのではないだろうか。
実際に、いくつかの科学領域は、人間を複雑な生命として見なすという発想よりも、機械として見なすような発想の方が優勢であるように思えるものがある。そうした発想の元になされる研究とその研究成果に頼った教育は、ことごとく人間をより矮小な存在に追いやっていく。
そうした状況に人々が気付けないのはなぜなのだろうか。もしかしたら、それほどまでに事態は深刻なものになっているのかもしれない。
すでに私たちの大部分は、機械化され、家畜化されてしまっているのかもしれない。機械は自分が機械であることを認識することはできないだろう。家畜もまた然りである。
フローニンゲン大学で科学的な研究に従事した結果として戻ってきたのは、トランスパーソナル心理学、実存主義的心理学、そして霊性学とでも呼べるような探究領域だった。ブラヴァツキー、シュタイナー、オーロビンド、グルジェフなど、とりわけ彼らが探究をしていた人間の霊性について、再度自分の中で関心の熱が高まっているのは、現代社会のこうした有り様によるものかもしれない。
今日はこれから、モーツァルトに範を求めて作曲実践を行う。その後、ハーモニーに関する専門書を読み進めていく。
少しばかり小雨が収まり、今は再び窓の外の世界をぼんやりと眺めている。そういえば、昨夜はこの時間あたりに、Google Mapを活用して、世界の様々な地域について調べていた。
地図上で間違って拡大ボタンを押しすぎてしまった時、地図が地球儀のような形になった。これは昔からあった機能なのかもしれないが、地球儀を眺めていると色々と面白いことに気づいた。
例えば、私はてっきり、アフリカ諸国は基本的に砂漠地帯が多いものだと思い込んであり、地球儀を通してみると、むしろ半分の国々は緑豊かなようだった。また、改めて感慨深く思っていたのは、地球はやはり広いということであった。
地図上には私が過去に足を運んだことのある地域に印が付けられており——自分が印をつけているのだが——、それらを見ると、私は地球上のごく一部の場所にしか足を踏み入れていないことに気づかされた。また、私が住んだことのある国も地域も、実は極々わずかなものでしかないことに改めて気付かされる。
地球の様々な地域の地形を眺めながら、そこでしか涵養されえぬ固有の人間性ないしは精神性について思いを馳せていた。これからも引き続き、私はこの地球上を転々として生活をし、自分を呼ぶ場所へ少しずつ足を運んでいくのだと思う。フローニンゲン:2019/1/15(火)20:12