時刻は午前十時を迎えた。今日のフローニンゲンは穏やかな天気である。
外の天候がいかなるものであったとしても、私が毎日この書斎の中で行うことは一切変わりがない。外側の世界の天候とは関係なく、自分がいかなる状況に置かれていたとしても、この生を生きるということだけがそこにある。
その一部として自分のライフワークがある。確かに、自分の生はすでにライフワークと一体化しているが、生そのものはライフワークを包摂している。
先ほどトイレに向かったとき、「地上で得られたものは地上に還元する。それが人間として生きることの一つの責務なのではないか」という考えが降ってきた。これは前々から思っていたことではあるが、再度先ほどその考えが湧いてきた。
この地上で日々自分のライフワークに従事する中で得られた知識や経験は、可能な限り共有していくことが重要である。なぜなら、それらはあの世に持っていくことができず、また、私たちの生は本質的にはそうした共有で成り立っているからである。
そのようなことを考えてみると、地上で得られたものは地上に還元するというのは自然の摂理なのだろう。
今朝のフローニンゲンの空には、まろやかな青空が広がっている。空の滑らかさを撫でながら、午前中の仕事にこれから再び従事していこうと思う。
早朝に、昨日書き残しておいたメモを改めて読んだ。そのメモには下記のようなことが書かれていた。
あの世について全く知らない人が、さらには、実際にあの世に行ったことがない人が、私たちをあの世にいざなうことについてどう思うだろうか?それは奇妙なことに思えないだろうか。
奇妙な点は、あの世にいざなおうとする人と、あの世にいざなわれていく人の双方にある。これは形を変えて、成人発達理論の扱われ方に見られる事柄である。
高次元の段階がいかなる課題や葛藤を内に抱えているのかを知らぬままに、高次元の段階へ到達することを推奨するのは、どこかおかしいのではないだろうか。高次元の段階に到達することが、あたかも救済をもたらすかのように喧伝する人が多いのは嘆かわしい状況である。
あの世に行ったことがない人が、そしてあの世がいかような場所であり、そこでいかような事柄が体験されうるのかに無知な者が、「あの世は楽園ですからあの世を目指しましょう」と述べているに等しいことが、成人発達理論を取り巻く世界の中で起きている。
いかなる発達モデルでもいいのだが、例えば、ロバート・キーガンの発達モデルにおける相互発達段階における実存的苦悩は一体何であろうか?スザンヌ・クック=グロイターの発達モデルの構成的認識段階の言語認識上の葛藤は何であろうか?カート・フィッシャーのモデルにおける原理レベルの思考形態を獲得してしまったことが引き起こす苦悩は何であろうか?
それらがいかなるものかに無自覚なままに、そうした段階に到達することを奨励するのはいかがなものだろうか。あまりにも無責任でありはしないだろうか。
高度な発達段階に固有の課題と限界、およびそれに伴う実存的苦悩がいかなるものかを理解しなければ、短絡的な楽園思想を抱いたまま成人発達理論と付き合い続けることになるだろう。
そのようなことを昨日書き留めていた。現状の成人発達理論は、結局それが未だ夢の中でさらなる夢を見るために活用されてしまっていることに留まっている。フローニンゲン:2019/1/9(水)10:25
No.1557: A Galactic Super-Express
Although it is still in the midst of winter, the time of sunset becomes later.
I’ll read a book about serialism. Groningen, 16:56, Thursday, 1/10/2019