今気がついたが、今日は日曜日のようである。その瞬間を迎えるまで、今日が日曜日であるということに気づかないでいた。
頭のどこかではそれを知っていたのかもしれないが、一度もそれを意識することなく今日はこれまでの時間を過ごしていた。もはやこうなってくると、人間の体感時間なるものはいかようにも変容を遂げうるものだということがわかってくるし、いかに私たちが虚構の時間の中で生かされているのかということもわかってくる。
先ほどまで姿が見えていた太陽はどこかに消え、今は空一面が雲に覆われている。灰色の雲の下を一匹の黒い鳥が飛び去っていった。
どことなく慰めの残り香が漂うような世界の中に身を置きながら、これから夕方の仕事に取り掛かりたいと思う。
その前に、先ほどまで行っていた作曲実践について振り返っておきたい。先ほどの作曲実践を通じて、改めて、いかに過去の偉大な作曲家が残した曲を模倣していくかについて考えさせられていた。
自分の曲をいかに生み出すかの前段階として、いかに過去の巨匠から汲み取れるものを汲み取るかが大事であり、それはすなわち、いかに模倣するかという問題に帰着する。単に模倣をしていては何も身につくことはなく、そこには模倣に対する自分なりの工夫が必要になる。
そうした自分なりの工夫が積もり積もって、ようやく自分なりの作曲語法が確立されるのだと思う。過去の作曲家の楽譜を参照する際には、「自分ならこの局面においてはこのようにする」「自分ならこのようにしたほうがいいと思うのだが、実際にそのようにしてみたらどのように響くのだろうか」という発想を絶えず持ち、実験に次ぐ実験を行っていく。要諦は、模倣と実験にある。
一編の詩の中に一つの感動の粒子が存在しているように、どのような短い曲の中にも感動の粒子を体現させていきたい。それは小さくていい。ただし、一つの曲には一つの感動の粒子、ないしはその曲の生命を必ず吹き込んでいきたい。
詩を書くように曲を書く。手紙を書くように曲を書く。日記を書くように曲を書く。
いついかなる状況においても、どのような場所においても曲を書いていく。そうした姿勢をこれからも持ち続けていく。
芸術哲学ならびに批判理論に関する関心が高まる一方で、それらとは領域を異にする形で、音楽理論に対する関心も高まっている。特に、楽曲分析を行うための音楽理論を学んでいきたいという思いが強くなっている。
それは分析のための分析を行うためではなく、あくまでも作曲をするために行うものである。分析を通じて作曲に活用できる観点を獲得していくということ。そうした分析を通じた学習を怠っていては、いつまでたっても作曲の技術は高まらない。
また、単に音楽理論に精通した形で曲を生み出すというよりも、そこに自分の全存在感が滲み出すような形で曲を生み出していきたい。そうなってくると、ますます自らの思想を育んでいくことが重要になってくることがわかる。
哲学へ関心を示していることの理由は多岐にわたるが、そうしたことも一つの理由として挙げることができるだろう。フローニンゲン:2019/1/6(日)16:20
No.1548: Beckoning of Zero Degrees
I worked, kept journals, and composed music today, which was ordinary for me.
Tomorrow will be the same. Groningen, 17:02, Monday, 1/7/2019