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3594. 現代社会に失われし円環


今日も相変わらず鬱蒼とした雰囲気の天気である。雨雲はないのだが、空一面が薄い雲の膜で覆われており、太陽の光は一切入ってこないような天候である。そうした天候がもう何日も続いている。

先ほど乾燥機から洗濯物を取り出している最中に、ふと空を眺めた時、そのわびしい雰囲気に思わず笑いが込み上げてきた。

こうした抑うつ的な気候の中で、自分のライフワークを人知れず前に進めていくこと。それは自分が望んでいたことであり、日々いかなる環境においても自らのライフワークに取り組むことができていることを改めて幸運に思う。

先ほど、教育哲学者のエリオット・アイスナーの書籍“The Kind of Schools We Need: Personal Essays (1998)”を昨夜に引き続き読み進めていた。芸術教育に対するアイスナーの洞察溢れる数多くの指摘に触発され、書籍の余白に書き込みをする量が自ずと増えた。午後からも本書の続きを読み、今日中に一読目を終えたいと思う。

先ほどふと、文化(culture)というのは、その語源が示唆するように、本来は私たちを耕してくれるはずのものだが、今の現代社会の文化はそうした役割を果たせず、機能不全に陥っているのではないかと考えていた。

より厳密には、文化は文化内の人々の精神を耕し、同時に人々は文化を耕していくという円環があるはずだが、今の私には現代社会にそうした円環を見出すことができない。文化は私たちを蝕み、私たちが文化を蝕んでいるという負の円環しか見えない。そうした状況はとても嘆かわしい。

改めて、今朝方見た一連の夢について思い出している。とりわけ、今朝方見た最後の夢について思いを巡らせている。

あの夢が示唆していたことは、究極的には、山を降りること、つまり天上界ではなく、この現実世界で活動することの意義を伝えたものであったように思える。

一方で、山を登っていく意義そのもの、さらには山を登った先に広がっていた桃源郷の美しさも伝えてくれるような夢だった。桃源郷に辿り着くまでに見た、数々の偽物の川もまた印象に残っている。

現代社会には、あのような幻想的な誘惑が数多く存在している。そうした誘惑に飲み込まれないように私を救ってくれたのは、先を歩く友人の存在であった。先を歩く友人は、自分がこれから歩く道を過去に歩いたことのある先人を象徴していたのかもしれない。

自分の道を歩くのは自分だけしかいない。だが、似たような道であれば、過去幾人もの人がそうした道を通ったことがあるだろう。まさに、人間の発達には固有性があり、同時に普遍性があるというのはそういうことだ。

桃源郷に到着し、山の山頂から麓に流れていく大きな川に飛び込み、その流れに身を任せていくことのなんとも言えない爽快感を忘れることができない。さらには、山の麓に着く直前に見た、城下町の景色を忘れることができない。

どんなに現代社会が病んでいたとしても、地上にはあのように美しい場所が残っている。現代を生きる私たちがなすべきことは、現代の病理を乗り越え、あのように美しい地上の世界を取り戻すこと、あるいは再創造していくことなのではないだろうか。フローニンゲン:2018/12/28(金)11:26

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