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3553. 社会化された価値(虚構の価値)の変容に寄与しているとは思えない成人発達理論やインテグラル理論の枠組み


時刻は午後の三時を迎えた。仮眠を取ってから、“Empowering Education: Critical Teaching for Social Change (1992)”を読み始め、今ちょうど昨日印を付けておいた数章を読み終えた。

本書を読みながら、改めて教育において学習内容そのものが政治化されていることについて考えていた。初等教育しかり、高等教育しかり、カリキュラムのコンテンツに何を含めるのか、何を除外するのかが強く政治化されていることに気づく。

私はこれまで日米蘭と三つの国で教育を受けてきたが、各国の持つ思想・文化は学習コンテンツに大きな影響を与えていることに気づく。私がアメリカやオランダで学びを得たのは大学院レベルのものであるが、そこで取り扱われているのは普遍的な学術知識であったとしても、やはり学習コンテンツがその国の思想や文化に影響を受けていることは否定できない。

これは確かに、その国でしか学べないことがそこにあるという固有性に関しては価値ある側面なのかもしれないが、逆に言えば、ひどく限定的な教育がそこで施されてしまう危険性を秘めていると解釈することもできる。

いかなる場所で学びを得ようとも、その場所が立脚する思想・文化といったコンテクストに学習内容は影響を受け、語られぬものが常にそこに存在しているということを忘れないようにする。それはこれから世界の様々な場所で学びを得ようとする自分にとって大事な観点だ。

先ほど読み進めていた書籍の中では、パウロ・フレイレとジョン・デューイの思想を参考にしている部分が多く、改めて二人の思想の中に発達理論の本質的な考え方が存在することに気づいた。

フレイレはまさに意識の発達モデルを提唱しており、それは三つの段階を持つものであり、最も高次な段階は、私たちが社会の構造的な問題を見通すことを可能にする批判意識を司るものだとしている。この意識特性については、一昨年、ないし昨年から強く関心を持っている。

フレイレが述べる批判意識について端的に述べると、それはある問題にアプローチする際に、まずはその問題の歴史的なコンテクストを紐解き、それによって浮き彫りになった事柄を再度現代社会のコンテクストに関連付けていく思考形態のことを言う。

言い換えれば、社会化された価値に対して、それが社会化された歴史的プロセスを辿り、その価値を取り巻く現代社会の問題を透徹した眼差しで再検証することを可能にする意識だと言えるだろう。

昨日の日記でも述べたように、本来成人発達理論やインテグラル理論の知見というのは、社会化された既存の価値を再検証するために発揮されるべきものなのだが、現在の状況はそれと真逆のことが行なわれているように思えてならない。

昨日も言及した「ティール組織」の枠組みの本質には、成人発達理論やインテグラル理論の思想が横たわっており、それは本来、企業社会における諸々の社会化された価値——ないしは虚構の価値——を解体し、新たなものに変容していくために活用されるべきものなのだが、現状は全く逆である。

価値の解体と変容を促すどころか、既存の価値を強固なものにし、虚構に虚構を上塗りするような形で用いられてしまっている。私はこの点について強い問題意識を持っており、それは強まるばかりだ。

人々がフレイレの発達モデルで言うところの批判意識を獲得、ないしは着実に涵養していけるような成人教育の枠組みは不可欠のように思えるが、その実現はとても険しく思えてしまう。フローニンゲン:2018/12/20(木)15:37

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