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3529. FCフローニンゲンとサッカー選手の知性について

時刻は午後の七時半を迎えた。つい今しがた夕食を摂り終え、これから就寝までの活動に従事していく。

そういえば辺りが闇に包まれていない夕方に、通りを走る一台のバスを見かけた。そのバスの表面には、フローニンゲンの街を代表するサッカーチームのFCフローニンゲンのデザインが施されていた。

気がつけばもう今から二年ほど前のことになるが、FCフローニンゲンの選手補強担当者と話しをする機会があった。FCフローニンゲンと私が所属していたフローニンゲン大学の心理学科は協働研究を行っている。

ちょうど私が在籍していたプログラムのコーディネーターであるルート・ハータイ教授は、まさにFCフローニンゲンとの協働研究に従事している代表的な研究者であり、ハータイ教授に声をかけてもらう形で、人材選抜に関する研究の小さな学会に招待してもらった。

それはキャンパスから近くの場所で行われたのだが、その学会に、FCフローニンゲンのその補強担当者も参加していた。今となっては懐かしいが、その学会の中で、その方の発表を聞き終えた後に、いくつか質問をした。

最後の質問は冗談を交えて、「優秀な若い選手が日本にはたくさんいるので、FCフローニンゲンには是非ともそうした選手を獲得してほしいのだが、その可能性はどれほどあるか?」と尋ねた。するとその補強担当者は笑いながら、「オランダ語ができればその可能性は十分ある」と答えた。

その学会のおよそ半年後に、当時ガンバ大阪に所属していた堂安律選手がやってきた。その時の学会での補強担当者の反応を見る限り、日本人選手がFCフローニンゲンにやってくる可能性は極めて低いと思っていたので、堂安選手がやって来るという知らせには、嬉しい驚きがあった。

そのようなことを通りを過ぎ去ったバスを眺めながら思い出していた。それともう一つ思い出したことがある。

その補強担当者の話を聞いていると、外国人選手に対しては、サッカーの技術のみならず、やはり知性の高さを求めているように思えたことである。ここで述べている知性というのは、サッカーインテリジェンスのみならず、内省能力や人格的成熟の要素なども含まれる。

その補強担当者のプレゼンテーションを聞いていると、選手選考の段階で、随分と科学的な方法を採用していることに驚いた。現代サッカーは、試合中のピッチの上だけではなく、はたまたトレーニングの最中だけではなく、選手の選考段階から科学的なアプローチが採用されているのだと実感した。

私はあまり心理統計的な手法を用いた選手選考に関心はないが、日々のトレーニングにおいて、いかにサッカー選手が知性を高めているのかについて関心がある。その背景には、現代サッカーは素人が見ても一目瞭然のように——優秀な解説者の解説がないと厳しいかもしれないが——、高度な知性が要求されるスポーツになっていることが挙げられる。それはさながら、「走る将棋」「走るチェス」のようにさえ感じる。

ピッチ上の選手の動きは極めてシステマティックであり、そうした規律のある動きの中で、一人一人の選手が閃きや感性を発揮させて、あっと言わせるようなプレーをするのを見るときに感嘆の声が漏れる。少なくともプロサッカーの世界においては、まずはそうしたシステマティックな動きができるだけの知性が選手一人一人に要求されているのだと知る。

それはあたかも、将棋やチェスで言えば、無数の定石を身体を通じて獲得していることが最低限の条件として選手に要求されているかのようだ。これは裏返せば、そうした数多くの定石を獲得してない選手は、少なくともプロの世界、あるいは欧州のトップリーグで活躍することは極めて難しいことを意味しているのかもしれないと感じる。

そこで私が問題意識を持っているのは、果たして日本人選手はどれほどそうした定石を身体知として獲得しているのだろうか?という点である。さらには、そうした身体知を獲得するためのトレーニングとしてどのようなことが行われているのだろうか?という点も気になる。

正直なところ、詰め将棋のような棋譜の積み重ねが日本人選手には圧倒的に不足していると思うことがある。ゴールを決めるというのを王将を取ることだと考えれば、詰むための手を欠いていることが決定力不足の要因の一つにあるように思えてくる。

これは端的には、サッカー選手の知性と密接に関係した話だと思う。詰め将棋のような棋譜、試合中の諸々の動きのパターンがどれだけ選手一人一人に蓄積されているのか疑問に思う。

何気なくサッカーの練習や試合をしていては、プレーの幅は一切広がらず、選手の知性が高まることはない。発達心理学者のカート・フィッシャーの理論にあるように、知性は領域固有性を持ち、私たちの知性は具体的な文脈における具体的な実践によって育まれることを考えると、そうした点を意識したトレーニングが現場に欠けているのかもしれないと思う。

確かに、サッカーにおいてはそれこそ無数の動きのパターンがあるが、得点を左右する決定的なパターンには規則性があり、ある程度の数——それでも膨大かもしれないが——に絞られるであろうから、それらを一つ一つ押さえていくようなトレーニングが必要なように思う。

それこそ、新しい動きのパターンに関する観点を一日一つ、ないしは少なくとも一回の練習で一つ身につけていくような意識を持つようにする。そうすれば、一年間で随分とパターン認識が高まり、プレーの幅が広がると思うのだが。

サッカーの現場において、「知性発達強化担当」などないのだが、実はそれに類する研究ないしは仕事がしたいとその補強担当者にメールを送ったところ、返信はなかった。

先ほども入浴中にブツブツと、サッカーにおける諸々のパターンについて解説をしている自分がいた。そうした定石を一つ一つ積み重ね、それが試合でうまくいけば、無上の喜びがあり、それがますますその選手のプレーの幅を広げていくことになるのではないかと考えていた。

そして、そうした知の積み重ねは後の世代に引き継がれていき、科学的な知の積み重ねと同様に、サッカーというスポーツそのものが発展・発達していく礎になるのではないかと思えた。

今日はこれから、午後に引き続き、作曲理論の学習を進めていく。2500年前にピタゴラスが誕生して以来積み重ねられてきた音楽理論を前にするとき、サッカーの理論にどれだけの蓄積があるのかやはり気になる。

仮にそうした体系が十分にあるのであれば、選手や指導者がどれだけそうした理論体系を汲み取ろうとしているのか、はたまた新たな理論的な功績をどれだけ日本人が行っているのかか気になる。

今すぐにではないが、いつかサッカーの領域にも携わった仕事をしたいと思う。サッカー選手の知性の発達を支援していくための方法に関しては、これまでの発達科学の研究で用いた手法が十分に活用できるだろうし、これまで企業組織と共同開発してきたトレーニングプログラムのアイデアを活用することができるだろう。

普段やたらとサッカーをしている夢を見るが、やはり私はサッカーが好きなのだろう。そしていつか、サッカーの分野と携わる日が本当に来るかもしれない。フローニンゲン:2018/12/15(土)20:08

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