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3347. 音色と音形


時刻は午後の三時半を迎えようとしている。早朝の小雨は午前中の早い段階で止み、今は空が晴れており、穏やかな雰囲気が辺りを包んでいる。

雨が止み、早朝の太陽の光がフローニンゲンを優しく包んでいた様子を改めて思い出している。それを思い出していると、どこからか秋の祝福の歌が聞こえてくるかのようである。

早朝に作曲実践を行った際に、以前作った曲を聴きながら、内的感覚をデッサンすると面白いことに気づいた。曲を作った段階でもそれを聴きながらデッサンするようにしているのだが、当時に描いたデッサンと今日のそれを比較してみると、色使いや形が随分と似ていることに気づいた。

試しに、さらに過去のデッサンを眺め返してみると、それらに関しても色使いや形が似ていることがわかった。どうやら一つの曲には、何か自分に共鳴する色や形というものが内在しており、それが似たようなデッサンを生み出しているように思えた。

もちろん、完全にそれらが合致することは稀なのだが、とりわけ色に関しては非常に似たようなものになることはとても興味深い。「音色」と呼ばれるように、音には固有の色があり、一つの曲にはそれ固有の色彩世界があるようだ。

「音形」という日本語は存在しないと思うが、形に関しても、音はそれなりに固有のものを持っているのではないかと思われる。日々デッサンをノートに描き、それを改めて眺めているとそのようなことを思った。

午前中、計画通りに二冊の書籍を読み終えた。教育哲学に関する書籍を読みながら、こうした書籍だけを頼りに教育哲学について考察を深めようとしていてはダメであり、現実世界に実際に生じている教育上の問題を特定し、それと向き合う過程の中で思想を深めていくことが重要だと改めて思った。

本質的な思想というのは実践の産物なのだと思う。教育哲学の思想を深めていくというのは、教育上の具体的な問題に取り組むという実践がなければならない。

ここで述べている実践というのは、自分を引きつけてやまない問題を特定し、その解決に向けて考えを巡らし、その考えを表明していくことを含む。すなわち、広義には思考することそのものも実践に他ならないのだが、その際には思考対象を明確にし、なおかつその対象が自分を捉えてやまないものであるかがカギを握る。

自分の実体験を遡り、教育上のどのような問題に取り組もうとしているのかをもう一度考えたいと思う。現在の自分の関心の焦点は芸術教育であり、芸術教育上のどのような問題に取り組むのかという焦点をより明確なものにしていきたい。

今日は三冊目の書籍を読まないつもりであったが、夕方にも時間がありそうなので、“Phenomenology & Existentialism: An Introduction (1984)”の初読を開始しようと思う。ここ最近は旺盛な読書をするゆとりがあり、そのおかげで、未読の書籍の山が随分と小さくなった。

まだ一読していない書籍を全て読んだら、久しぶりに発達心理学の基礎的なテキストや、ジェームズ・マーク・ボールドウィンの全集を読み返そうと思う。それがひと段落したら、以前に言及していた、フリードリヒ・シラー、スザンヌ・ランガー、エリオット・アイスナー、マキシン・グリーンが執筆した芸術教育に関する哲学書を15-20冊ほど注文したいと思う。

この冬はそれらを読むことに時間を充てたい。フローニンゲン:2018/11/2(金)14:58

No.1376: Withered Leaves Like Ninjas

Falling dry leaves look like ninjas.

I’ll go for a walk to see their dance. Groningen, 14:35, Saturday, 11/3/2018

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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