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3332. 他者理解と一なる心の可能性


時刻は午後の七時半を過ぎた。つい先ほど夕食を食べ終え、これから就寝までの最後の活動に従事していく。

具体的にはハイドンに範を求めて一曲作り、時間が余れば音楽理論に関する書籍を眺めていく。今日は本当に旺盛な読書を行うことができ、いつも以上に充実感がある。

今日も再び、知性を働かせた思考、すなわち概念的な思惟が必要な理由について考えていた。端的にそれが必要なのは、概念的な思考の限界を知るためなのだろう。

確かに私は日々——そして今この瞬間も——言語を通じて思考を働かせ、その思考内容を文章として書き残しているが、それを行っている理由としては、もうこれ以上言語化することのできない所まで辿り着き、その背後にあるものを感じるためなのだと思う。

言語を超えた直接体験。あるいは言語を極限まで用いた結果として獲得される超越的な直感を活用するために、日々文章を書き留めているのかもしれない。

また、意識の上で言語を用いた思考を絶えず行っていることのその他の理由としては、言語が生成する無意識の領域そのものを解体していくためなのではないか、ということにも気づいた。これは大変興味深く、これまで想像したことのなかったものだ。

今から七年前にジョン・エフ・ケネディ大学に在籍していた頃、「ダイヤモンドアプローチ」という自己探求技法の実践をするクラスがあり、そこで「自分は誰か?」という問いを対話の中で何度も繰り返し向き合っていくワークがあった。

そこでは言語化できる極地までその問いを深めていくのだが、最後の最後で面白い出来事に遭遇した。それは、自らの言語機能が停止し、沈黙するしかないということであった。

その時の出来事を改めて思い出すと、そこでは言語を生み出す無意識の領域が解体され、それによって沈黙が生まれ、その沈黙の中に芽生える直感的な感覚こそが自分が何者であるかを規定するものだったのではないかと思う。言葉と意識、さらには無意識との関係性については今後も考えを深めていく。

書斎の窓の外を眺めると、辺りはもうすっかりと闇に包まれていることに気づく。今日は夕暮れから闇に変わる推移を見逃していたようだ。一なる闇が外の世界に広がっている。

夕食前に、シュレディンガーの“What is Life? & Mind and Matter (1969)”を読み進めている時に、ある人が他の人と共通理解を得られるということの中に、一なる心の存在可能性を見て取ってひどく興奮していたのを覚えている。

よくよく考えると、ある人が全くの他人の考えなり感覚なりの一部を理解することができるというのは驚くべきことであり、それが可能なのは、私たちの心は多様でありながも、同時に究極的には一つだからなのではないかと思った。おそらくそれが「ビッグマインド(Big Mind)」と呼ばれるものなのだろう。

また、シュレディンガーが指摘しているように、英語において意識は“consciousness”と表記され、それは複数形を取ることはなく、常に単数系だ。興味深いのは、心(mind)は複数形を取ることがあり、それはもしかすると心の多様性を暗示しているのかもしれない。

だがそうした多様性を持つ心ですらも、ビッグマインドという一つの心に至れる可能性が常に私たちの内側に存在しているのだろう。おそらく、ビッグマインドに到達するという考え方はそもそもおかしく、本質的には常に一なる心を私たちが持っているからこそ他者理解が可能なのではないかと思う。

意識が複数形を取らず、常に単数系であるというのは、アートマンとブラフマンが一致するという梵我一如を暗示している可能性があることもここに明記しておく。フローニンゲン:2018/10/29(月)19:58

No.1367: The Brilliant Child’s Mind

Ending a day represents returning to childhood and starting tomorrow with a new mind. Groningen, 20:40, Wednesday, 10/31/2018

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