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3330. 記述を超えた日々の生活


今日はもう少し晴れ間が顔を覗かせると思っていたが、一向に太陽の姿が見えない。鬱蒼とした雲が空を覆っており、寒空の中を自転車で駆け抜けていく人たちの姿を見かける。

気がつけば、欧州で三回ほど誕生日を迎え、今もなおこの地での生活は日々静かに進んでいる。欧州で過ごす毎日の生活について絶えず日記を書き留めているが、ここでの実際の生活は絶えず日記を超えたものであるということに気づく。

悟りの体験を言葉で記述した瞬間に、それはもはや悟りの体験ではなくなってしまうように、欧州で過ごす日々の体験は日記で記述される事柄を常に超えている。そのような日々がこれからも続いていく。

今朝方の夢の中で、不老不死の薬を飲む事態に遭遇していたことを再び思い出している。死への恐怖と不死の恐怖の先には何が私たちを待っているのだろうか。

死ぬことと死なないことの二元論を超えた先にある認識世界に自ずと思いを馳せる。今日の天気はそうしたことを私に促してくるかのようだ。

早朝よりシュタイナーの芸術論に関する二冊の書籍の再読を終え、これから読み進めていくのは美学に関する“The Foundations of Aesthetics (1966)”という書籍だ。本書は、フローニンゲンの街の古書店Isisで購入したものであり、購入から随分と時間が経ったが、本書の初読をこれから楽しみたいと思う。特に、音楽に関する記述がある部分を中心に読み進めていこうと思う。

午前中にはシュタイナーの書籍以外にも、上の階のピアニストの友人から借りた『禅と精神分析 (1960)』を読み進めていた。本書を借りる際に、彼女がこのような書籍を持っていることに驚いたが、本書を読み進めてみると、内容の充実振りにはさらに驚かされた。

これはもう購入して手元に持っておくべき書籍だと思い、日本のアマゾンから本書を購入し、それを実家に送る手続きをした。本書はフロムの書籍を翻訳したものであり、原著を読んだわけではないのだが、おそらく翻訳の方が原著よりもわかりやすく、優れた訳書だと直感的に確信した。

本書の購入に合わせて、鈴木大拙の『禅(1987)』も合わせて購入した。二冊の和書は実家に送るため、今度日本に一時帰国した際にそれらを読むことをとても楽しみにしている。

語ることのできないものが語られた時に喚起される特殊な感覚というものが存在するようであり、二つの書籍はそうした感覚を私にもたらしてくれるものだと強く思う。

昼食まで上記の美学に関する書籍を読み進め、昼食後に仮眠を取ってから作曲実践を行う。その際にはテレマンに範を求める。

早朝の日記で書き留めていたように、日々の作曲実践では曲を構築していくという側面を大切にしながらも、同時にその瞬間に生起する自分の内側の感覚を逃さずに捕まえ、それを形にしていくという点も大切にしていく。つまり、構築性と瞬間性の絶妙な塩梅を通じて作曲実践に励むように心がけていく。

それは言い換えれば、意識的・無意識的な音楽の創出実践だと言えるかもしれない。フローニンゲン:2018/10/29(月)11:13

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

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