時刻は午後の五時半を迎えた。今日からサマータイムが終了し、日が暮れるのも随分早くなった。この時間帯はちょうど夕日が西の空に沈む間際だ。
夕方に作曲をしている最中、輝く夕日を眺めながら、静かな波のような感情エネルギーを感じていた。外面世界と内面世界が相互作用し合い、そうした内的感覚を引き起こしていたということ、そしてそれが曲としての形に変貌を遂げていくことは大変興味深い。
私たちの内側には、絶えず混沌とした内的感覚を生成する力と、それを秩序立てる力の双方が存在しており、二つの力が一つになってある形を生み出していくのだろう。内側の造形作用というのは、秩序化を促す働きであり、それは混沌とした内側の感覚に形を与える役割を担う。そのようなことを夕方の作曲実践の最中に考えていた。
昨日の日記の中で、いくらある対象を記述してもそのもの自体を記述することはできないと書き留めたいように思う。その主題について改めて考えていた。
ここではもちろん、記述することの価値を蔑ろにしているわけではない。むしろ逆であり、記述して初めて開示される真実というものがあり、記述する試みを通じて科学や私たちの文明が発達してきたことを忘れてはならない。
自分が日々自己の存在や人生などを記述しているのは、それら自体をあるがままに記述できないのは百も承知だが、それでも記述して初めて開示される自己の存在や人生の真実があるからなのだと思う。そうしたことに気づいた瞬間に、記述する行為を蔑ろにすることはできず、そこに記述の価値を見出すことができる。
記述という行為は、精神世界の人たちや非二元の体験を手放しで称賛する人たちから批判を受けることが頻繁にある。彼らは非二元の体験にせよ、別種の高次元の体験にせよ、それらを記述することを極度に嫌い、それらの体験は記述を超えたものだと述べる。
そうした体験が記述を超えるという点に関しては、上述のように私も同意している。だが、彼らは多分に主観主義的であり、とりわけ自然言語や科学言語による記述を過度に拒む傾向にあり、それは問題があるように思える。
そもそも、彼らが自らの体験を非二元だと知りえたのはなぜだろうか。そうした体験が非二元だと納得できたのはなぜだろうか?それは誰かの記述があったからではないだろうか。
また、彼らは記述を嫌っていながらも、そうした記述を読むことを好んでいるという矛盾した特徴を持っている。事実そうした体験に関する書籍を旺盛に読んでいるのがを記述を嫌う彼らの姿だろう。
非二元の体験が記述できないと知っていながら彼らがそうした書籍を読むのはなぜなのだろうか?ここに彼らの矛盾した行動を見出すことができる。
非二元の体験特性、それに至る階梯を含め、記述して初めて私たちに共有される知があることを忘れてはならない。
今日はシュタイナーの書籍を随分と読み進めており、シュタイナーが述べている精神科学というのは、記述の限界を認識していながらも、そうした限界に挑戦するかのように記述を試みる思想・方法体系なのではないかということに気づいた。
シュタイナーは、高次元の体験そのものを記述することの限界を当然ながら認識していたが、それでもそうした現象を記述していたことの意味、そして残された記述の意味そのものを考えてみる必要があるのではないかと思う。フローニンゲン:2018/10/28(日)17:53