昨日就寝する前に、今日は芸術教育の哲学に関する書籍を積極的に読んでいこうと思った。とりわけ、ルドルフ・シュタイナーの芸術教育思想に関する5冊ほどの書籍を読み返す計画を立てた。
それらの書籍は以前に一度読んでおり、今日もまた自分が関心を持っている主題に絞ってそれらの書籍を読み返していく。昨夜改めて考えていたのは、シュタイナーやクリシュナムルティなど、洞察に溢れる教育思想を持っていた人たちの叡智が学術世界における論説の中に取り上げられないのは問題なのではないかということだった。
どうも私は、シュタイナーやクリシュナムルティのように、優れた思想を持っていながらにして、既存の学術世界から虐げられている人たちに関心を示す傾向があるようだ。私は彼らの思想を学術機関の外で積極的に学んでいくだけではなく、彼らの叡智をなんとか既存の学術世界の論説の中に組み込んでいきたいという強い思いを持っていることに昨夜気付いた。
「虐げられた覚者の魂の復権」という言葉が自分の脳裏をよぎった。確かに数は少ないが、調査をしてみると、シュタイナーの教育思想に特化した専門ジャーナルがあることを知った。こうした専門ジャーナルだけではなく、教育哲学を扱うもう少し一般的なジャーナルの中で、シュタイナーやクリシュナムルティなどの思想を扱えないかと考えている。
学術研究に関しては、作曲実践と同じように、短い論文を書いていくことに再び意義を見出し始めた自分が昨夜現れた。日々の作曲では短い曲を作ることに喜びを見出しており、それと同様に、10数ページの短い論文を執筆していく。
博士論文のように長い論文を一度に書き上げるのではなく、短い論文を絶えず執筆していくこと。そこに意義と喜びを再び見出し始めた自分が生まれたことを歓迎したい。
来年再び大学院に戻ることができたら、履修するコースで執筆する一つ一つのレポートを査読付き論文になるぐらいの次元で執筆していく。最初からそうした意図を持って執筆する旨を担当教授に告げ、彼らの支援を受けながら査読付き論文にしていく。
今年受理された査読付き論文も決して長いものではなく、それは一昨年に執筆した修士論文を極めて短く要約したものだった。そのように、大学での日々の学びの過程で執筆した文章は、逐一査読付き論文として世の中に共有していくようにしたい。
今朝方、フローニンゲン大学のオンラインジャーナルの閲覧システムを使いながら、いくつかのジャーナルを調べていた。中でも、“Journal of Philosophy of Education”から発行されている論文にはいくつか面白いものがあり、取り急ぎ5本ほど論文をダウンロードした。
教育哲学や芸術教育の哲学に関するジャーナルとしてはその他に、“Philosophy of Education: Yearbook of the Philosophy of Education Society,” “Studies in the Philosophy of Education,” “Philosophy of Music Education Review,” “European Journal of Philosophy of Arts Education,” “Philosophy of Music Education Newsletter”などがあり、そこに掲載されている論文を引き続き調査していきたい。
すでに発行が終了してしまっているジャーナルもあるが、過去に参考になる論文が投稿されている可能性もあるため、丹念に過去の出版物を追っていく。過去にどのような議論がなされており、現在においてどのようなことが議論されていないのかを自分なりに把握していくために、少なくとも上記のジャーナルで過去に出版された論文の全てのタイトルに目を通し、自分の関心を引く論文は漏れなく全て読んでいく。
作曲実践と同様に、小さな論文を執筆していくことへの意義と喜びを再び見出したことは自分にとってとても大きく、これからの歩みに光が灯ったかのような感覚がする。フローニンゲン:2018/10/28(日)06:54