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3322. 自己超越と主体客体について


今日は本当に雨が降ったり止んだりを繰り返す変動性の激しい一日だ。今は雨が止んでおり、太陽が空に輝いている。ただし、太陽の進行方向の先には雲があるため、再び曇り空になるだろう。

今日は読書と作曲実践の双方が順調に進んでいる。今日はこれまでのところ様々な書籍を読んできたが、そうした読書の合間にも色々なことを考えていた。

一つは、人間発達に関して、私たちの主体は、自らを超えていくという側面を持ちながらも、超えた先に待つ新たな主体に即座に結び付けられていくという特徴を持つという点だ。私たちは自らを超えることができるという側面と超えることができないという相矛盾する二つの側面を持っているように思う。

自らを超えられないというのは、超えた瞬間に新たな自己が生起し、再び超越に向けた運動が起こるという点においてそれを認めることができる。私たちは、自らを超え、再び自らに出会うという絶え間ない繰り返しの運動の中にあり続けているかのようだ。

もう一つ、私は日記のような文章を書くことを通じて、主体を客体化することを絶えず行っているが、主体のある側面を対象化した瞬間に、本質的に主体はその対象を超えているがゆえに、自らが掴みどころのない存在であることに気づく。

言い換えれば、主体は究極的には客体化できず、客体化できるのは主体のある側面にすぎないことが見えてくる。これは自己に対してのみならず、他の様々な現象にも当てはまる。

例えば、それは科学的な思考においても当てはまる。科学的な思考を用いてある現象を対象化することは、ある現象の一つのないしは複数の側面を理解することには有益であるが、思考による対象化をした瞬間に、それはそのもの自体を捉えたことにはならないということを認識しておく必要がある。

思考による客体化を行った瞬間に、掴めるものがある一方で、そのもの自体の認識は滑り落ちてしまうのだ。ここではもちろん、思考による対象化の価値を蔑ろにしているわけではなく、むしろその逆であり、思考によって現象を対象化することによって初めて見えてくるものがあることは確かだ。

だが忘れてはならないのは、思考による対象化をどれほど積み重ねようが、ものそれ自体を完全に把握することができないという点だろう。

ここからさらに、何かを学ぶ際に、何かを知ることは、知るものと知られるものとを二分化して初めて成り立つと考えがちだが、そもそも自分にとって重要な知とは、そうした二分法的な発想を超えて、知るものと知られるものが合一したものなのだと思う。

よく私が「自分に引きつけて学ぶ」ということを言っているが、それはそうした意味なのだと改めて気づく。自らにとって重要な知は、単に客観的な知として自己と独立して存在しているわけではなく、自らの存在と分断することができない。

仮に何かを学ぶ際に、その対象に対してそれが単に知られるものだと認識してしまった瞬間に、主客の二分が生じ、その結果として獲得された知は真に自分のものにはならないのではないかと思う。そのようなことを窓の外を眺めながら考えていた。

太陽はかろうじてまだ雲に包まれていない。フローニンゲン:2018/10/27(土)16:31

No.1364: Under the Crystal-Clear Sky of Early Morning

Morning dawned, and a clear blue sky showed up.

Because I’ve not seen it within a couple of days, the beauty of the crystal-clear sky is exquisite. Groningen, 07:42, Wednesday, 10/31/2018

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