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3321. 脱学校化・脱組織化された学びと問題創出について


今日は早朝から随分と冷え込んでおり、昨日よりもヒーターの温度を高くした。空は相変わらず雨雲に覆われたり、それが晴れたりを繰り返し、雨と晴れが断続的にやってくる。

午前中の読書がはかどり、早朝に計画していた二冊の初読を終えた。二冊のうち、“Freedom and Beyond (1972)”を読みながらふと思ったのは、自分の学びは脱学校化が完成され、学びが完全に生活の一部になっているということだった。

学習というのは決して学校の中だけで行われるものではないのだが、どうも現代社会においては、学習というものが学校の中だけの営みとして見なされがちであるように思う。いや厳密には、企業組織も含めると、学習というものが何かしらの組織の中でなされるものだと思い込んでいる人が多いのではないだろうか、と言い換えることができるかもしれない。

私たちの学習は、決して組織の中に限定されてなされるものではないはずなのだが、その点に関して誤った、ないしは非常に限定的な考え方が蔓延しているように思う。仮に私が来年に学術機関に戻ったとしても、それをもって新たな学習が始まるわけでは決してなく、今年のように学術機関に所属していなくても、絶えず自分の学びは日々新たに進行している。

学びとは組織に帰属するものではなく、その人の生活、ないしは人生に帰属するものなのではないだろうか。それがまさに、学びは人生に他ならないという発想であり、絶え間ない学びは絶え間なく続く人生の歩みと同一であるという発想に他ならない。

今日はすでに二冊の書籍を読み終えたが、この流れを受けて、上の階に住むピアニストの友人に借りた『禅と精神分析(1960)』を読み進めていこうと思う。

今日は作曲実践も十分に行うことができるだろうし、それに並行して作曲理論や音楽理論の学習も行えるだろう。早朝にふと、問題を発見してそれを解決するというよりも、取り組むべき問題を自ら作り出し、それを解決していくことの中にその人の創造性が発揮されるのではないかということを考えていた。

確かに、私たちの創造性は問題発見や問題解決の際にも発揮されることは間違いないが、卓越した創造性を持っている人は、そもそも問題創出の力が優れているのではないだろうか。普段自分が取り組んでいる作曲実践というのはまさに、音楽的な問題を自ら作り出し、その問題を解く過程の中で進められていく。

問題発見や問題解決は確かに重要なのだが、それ以上に、課題を自ら作り出していくことの意義を忘れてはならないのではないかと思う。フローニンゲン:2018/10/27(土)10:53

No.1363: The Entrance of a Dream

I have a sense of fulfillment, and I will stop today’s work here.

I can perceive the entrance of a dream to be wrapped in light. Groningen, 20:33, Tuesday, 10/30/2018

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

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