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3303. 理解のプロセスと知の習得プロセス


時刻は午後の五時半を迎えた。今日は晴れたり曇ったりを繰り返すような一日だった。夕方の今は太陽が雲に隠れているが、遠くの空は夕日に明るく照らされている。

今日は午後に、ネルソン・グッドマンの“Language of Art (1976)”の初読を終えた。本書を読みながら、改めてメタファーの象徴機能について関心を持った。

ある現象を説明するためにメタファーを活用する際に、そのメタファーは何をどれほどまでに説明しているのか、その点に関心がある。それともう一つ、芸術理解の固有性が何かについて関心があることを今日も確認した。

繰り返しになるが、芸術作品を理解する際に発揮される、さらには獲得される理解の方法は、現象を科学的に理解することとは根本的に違うものが含まれていることを感じている。だが、それが何かについてまだ明確に言葉で述べられるほどの理解に至っていない。

さらには、それについて詳述している論文や書籍がすでに手元にあるのだが、それを読んでもまだ自分の言葉でうまく説明できない段階にある。これは探究において必ず通るプロセスであり、感覚的には何かを掴み始めているが、それをまだ言葉でうまく説明できないというのは、自分の理解が深まっていくプロセスを歩んでいるという点において良い兆候だと思う。

今日は、ネルソン・グッドマンとルドルフ・シュタイナーの認識論に触れてきた。少し前には、キャサリン・エルギン教授の認識論に関する書籍を読み進めてきた。なぜだかこの三名には親近感のようなものを感じることができるので、彼らの書籍を中心にして認識論に関する理解を深めていこうと思う。

今日はこれから、協働者の方々との勉強会に向けてカリキュラムを作成しようと思う。具体的には、スザンヌ・クック=グロイターのある論文を四回に分けて学んでいく勉強会を行う予定である。

各回に取り上げるページや着眼点を記載した簡単なカリキュラムをワード二枚ほどで作成したいと思う。今回改めてクック=グロイターの論文を読むに際して、成人発達理論を日々熱心に学ぶという地点にはもう自分は存在しておらず、それは自分の探究人生において過ぎ去ったことなのだと思った。

もちろん、これからも成人発達理論に関する学びを絶えず深めていくことは確かだが、ジョン・エフ・ケネディ大学に在籍していたような形ではもはや探究はできないし、それをする必要もないということに気づく。

今はもっぱら、すでに獲得された成人発達理論の知見を日々の協働プロジェクトの中で活用すること、さらには他の学問領域を理解するためにその知見を活用する段階に自分がいることに気づく。おそらくこれは、知の習得プロセスにおいて必然的に起こりうることなのだと思う。

現在は、すでに獲得された知見を日々の協働作業の中で実務的に検証し、実践に活用する形で知を磨いていく段階なのだろう。フローニンゲン:2018/10/22(月)17:39

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