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3301. 認識論を探究する意義とルソーの書籍


昨日に引き続き、今日も積極的に読書を進めていこうと思う。具体的には、シュタイナーの書籍とグッドマンの書籍を読み進めていく。

前者に関しては、先日ボストンの古書店に訪れた際に購入したものであり、直感的な認識方法について扱っているものである。本書の序文を読んだ時、シュタイナーが「知ることとは何か?」というテーマに強い関心を持っていたことがわかり、これはまさに認識論の主題に他ならないと思った。

同時に、それは今の私が関心を寄せていることでもあり、シュタイナーの思想に触れようとする自己の衝動の根源が何かが見え始めている。また、グッドマンは偉大な認識論者でもあったため、グッドマンの書籍とシュタイナーの書籍を同時に読み進めていることにも何かしらのつながりがあるだろう。

結局のところ、知性の発達プロセスとは、私たちがこのリアリティをいかに把握し、私たちの認識方法がどのように変容していくのかの過程であるため、認識論は知性の発達プロセスを考える根幹をなす思想体系であるように思えてくる。今の私が認識論に関心を持っている理由の一つはそこにあるだろう。

もう一つ理由を挙げるとすれば、それは芸術教育の価値を論じていく際に、そもそも芸術を理解することとはどういうことなのか?というテーマは避けて通れないからである。より具体的には、芸術を理解することとはどういうことであり、それは他の認識方法(例:科学的認識方法)といかように異なるのかを明らかにしていくことによって、芸術そのものの意義、さらにはそれと触れることを促す芸術教育の意義を明らかにしていきたいという思いがある。

その実現には認識論を深く理解していくことが不可欠であると考えるに至っている。そのため私は、グッドマンやキャサリン・エルギン教授の書籍をここ最近よく読んでいるのだと思う。ここからも継続して認識論についての理解を深めていく。

今日はその他にも可能であれば、ルソーの教育思想に関する書籍“Rousseau and Education According to Nature (1971)”を読み始めたい。本書は、三年前に神保町の古書店に訪れた際に購入したものであり、現在に至るまでまだ一度も通しで本書を読んだことはなかった。

この日のために本書を数年前に購入していたというのは、どこか感慨深いものがある。以前に購入した書籍が手付かずのまま、それからしばらく経って突如として自分の目の前に現れたかのようにその存在に気づくことがよくある。

昨日本棚を眺めていると、まさにそのような体験をした。三年前の自分はまだ教育哲学に関して強い関心を持っていなかったにもかかわらず、本書を購入していたことを不思議に思う。

もしかすると、その時の私の内側には、すでに教育哲学に対する関心の芽生えがあったのかもしれない。そうでなければ本書を購入するはずはないだろう。

あの時の私は、数年後に読む予定で本書を購入したわけではなく、今その瞬間に何か大切なものを感じ取ったがゆえに本書を購入していたのだと思う。そうなると、やはり当時の私には教育哲学に対する何かしらの思いが芽生えていたのだと改めて知る。

昨日はフローベルの教育思想に関する書籍を読み進めていたが、今日はルソーの教育思想に触れようと思う。この書籍がまた、自分をまだ見ぬどこかに連れて行ってくれるような予感がする。フローニンゲン:2018/10/22(月)08:26

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