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3296. 誕生日だった今日


つい今しがた、今朝方見ていた夢について日記を書き留めていた。それを書き終えた後、今日の日付を日記に入力した瞬間に、今日は自分の誕生日であることに気づいた。

近頃私は、現在の西暦を確認しなければ、自分の正確な年齢がわからなくなってきている。おそらく外側の時間に従って生きることを極力避け、出来るだけ内側の時間に寄り添う形で生きていくことを続けた結果として、そのようなことが起こっているのだと思う。

現在の西暦から自分が生まれた西暦を引き算しなければ自分の年齢がわからなくなってきているというのは奇妙なことかもしれないが、私はそれが正しい生き方であるとどことなく確信している節がある。

暗闇に包まれたままの空を眺めながら、自分の誕生日を一人静かに祝った。祝いの方法は至極単純なものであり、この日に誕生したのだということに気づくことだった。

何か特別なことをして祝ったわけではなく、単にそれに気づくことが最大の祝いであった。

ここのところ私は、近い将来に欧州の地で永住場所を見つけ、その地で生活を続けていくことになる予感がしている。それは予感であると同時に、自分の希望でもある。

昨夜も考えていたが、やはり私はもう日本で生活をすることはないのだと思う。いつもこの考えが浮かぶたびに、人生には何があるかわからないということを思うが、諸々の理由によって自分は日本で生活をすることはできないのだと思う。

来年仮にアメリカに戻ることができたら、そこで数年ほど暮らし、その後はスイスのドルナッハで生活を営もうと思っている。だがそこが永住の地だとは思えず、おそらく私は再びオランダに戻ってくるか、北欧諸国のどこかに移住し、そこで永住の地を見つけるような気がしている。

現実的な話をすると、日本人の私が欧州で永住権を取得するために好都合なのは、やはりオランダである。今度はアムステルダム郊外のどこかで静かな生活を営みたいと考えている。そのようなことを昨夜就寝前に考えていた。

それともう一つ、「この世界のどこで何をしようとも、自分は独りである」ということについても考えていたように思う。そのテーマに対して、どのような観点からいかように考えを巡らせていたのかはもう覚えていない。

究極的な孤独性に行き着いた後に、何か花が開いたかのように、ごくわずかな人たちと深い付き合いをしながら生活を営んでいる自分の姿が見えたような気がした。仕事においても私生活においても、そうしたごく少数の人たちが常に自分を取り巻いている姿が見えていたように思う。

時刻は午前八時を迎えようとしており、ようやく空がダークブルーに変わりだした。朝日が照り始めるのはもう少し後だろうか。

今日は誕生日であるということを再度思い出し、別の仕方でこの日を祝おうと思った。それは、読みに読み、書きに書き、作るに作るという、これまでと同じ生活を送ることである。

自分にできる探究活動と創造活動に打ち込むことが自分の人生に与えられた役割であるのだから、それを普段と変わらずに行うことが、自分の誕生日を祝う最良の方法であるにちがいない。フローニンゲン:2018/10/21(日)07:45

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