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3283. 異国の地から


今日は無性に和書が読みたい。ここ数ヶ月間、和書から離れており、自分の心身と存在そのものが英語空間の中に浸りきっていたように思う。

そうしたさなかにあって、自分が執筆する日記だけが日本語空間に触れる唯一の機会であり、今日はふと、久しぶりに和書を旺盛に読みたいという思いが芽生えた。

今日は英語の論文や書籍を読むことをなんとか控え、それらを読みたいと思う衝動をあえて抑えるようにしたい。その代わりに、逆の衝動として芽生えている、和書を読みたいという衝動に純粋に従っていく。

今日は、小林秀雄、森有正、辻邦生の三名の文章を読み進めていく。フローニンゲンの自宅に置かれている和書の執筆者はごく限られており、その他には井筒俊彦、福永武彦、吉田秀和がいるぐらいである。

いつか自分は日本語だけを用いてモノを考えていく日がやってくるのだろうか。そのことを昨日も考えていた。

これから再び大学院に戻り、哲学の探究を進めていく際に、そこでは母国語ではなく外国語を用いることが要求される。言葉を扱いながら一つ一つ思考を深めていくことが哲学の探究には要求されるが、果たして自分はどこまでそれを外国語で行えるのだろうか、という問いと直面している。

いっその事、日本語で哲学探究をした方がいいのではないかという考えが脳裏によぎったが、どうもそのような単純な問題ではないらしい。日本語と英語の双方を用いながら考え続けていくこと。それはどこか自分の人生の宿命のように思えてくる。

今朝もまた、果たして自分は日本に戻る日がやってくるのだろうかということを考えていた。それは一時帰国という形ではなく、日本に定住するという意味においてである。

以前までは数十年後には必ず日本に戻ろうと思っていた。しかし、このところ思うのは、もしかすると日本で生活を送ることはもうないのかもしれないということである。

母国に関与をしていく際に、自分が日本にいる必要はなく、むしろ日本にいることによって自分は母国に何も関与できなくなってしまうのではないかという考えが芽生えている。米国での四年間の生活を終えた後に一年間ほど日本で生活をしていた時に感じていた、何とも言えない寂寥感のようなものを思い出す。

確かに今後の人生がどのように進んでいくかは誰にもわからない。そのため、日本で生活をする日がやってくるかもしれない。ただし今の私には、それは遥か彼方の現象であるように思えて仕方ないのである。

今日は和書を旺盛に読み進めていくが、その時に最優先されるべきは、フランスの地で客死した森有正先生の日記だろう。森先生のみならず、異国の地で長く生活を続け、その地で人生を終えた人物には、私を強く惹きつける何かがある。

今書斎の中で流れている音楽を生み出したショパンもまさにそうだ。フローニンゲン:2018/10/18(木)09:06

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