今朝は一度3:33に目を覚ました。目を覚ました時間があまりにも早かったため、そこから二度寝をすると、七時半を過ぎていた。
今は午前八時半を迎え、辺りが柔らかな朝日に照らされている。今日は月曜日ということもあり、昨日よりも活動的な様子がどことなく感じられる。
深夜未明に一度目を覚ました時、自分が印象的な夢を見ていたことに気づいていた。確か、親友の一人と一緒に話をしている場面があり、そこではこれから始まるサッカーの試合に向けてどのような連携をするかに関して話をしていたように思う。
彼は私とはちょうど対角線上の攻撃的なポジションを取っていて、私は中盤の右のポジションを担っていた。彼に確認したのは、自分が相手の守備陣の裏にボールを送った時、相手の守備陣よりも早くそのボールを拾える自信があるのかどうかだった。
友人は自信があるという返事をしたので、私は試合の中では積極的に相手の守備陣の裏にボールを送ることにした。その他にも何か夢を見ていたような気がするのだが、その場面が印象に残っている。
深夜未明に目を覚ました時、その場面を振り返っていると、その親友はもうこの世にいないことを思い出した。若くしてこの世を去ったその親友は、たびたび私の夢の中に現れる。それも決まって、サッカーを一緒に楽しんでいる夢として彼は現れる。
昨日、教育哲学者のザカリー・スタインの書籍を読みながら、自分の研究の方向性についてまたしても考えていた。そこではふと、欧米における芸術教育の歴史とそれを取り巻く思想及び教育システムを探究していくよりも、日本のそれを探究した方が意義があるのではないかと考えた。
今は日本語の文献を閲覧・入手できるような状況にないため、その探究に乗り出していくことは難しいが、いつかその探究に着手してみたいという思いが募る。
芸術教育の歴史に関する研究はすでにいくつも存在しているだろうから、私が果たす役割は、その歴史を発達理論の観点から捉え直すということにある気がしている。また、学術の世界ではあまり積極的に採用されない思想の枠組みとして、シュタイナーの芸術教育思想に光を当てることも大切な役割の一つだと感じている。
残念ながら、学術の世界では、シュタイナーの思想はあまり積極的に探究されておらず、むしろそれは忌避するべきことのように扱われているが、自分はその流れに反する形でシュタイナーの思想を取り上げていく。なぜなら、シュタイナーの人間観、発達・教育思想は現代社会において重要な問題意識を投げかけてくれるものだと思うからだ。
これと似た様な状況に置かれているのが、ケン・ウィルバーの思想だと思う。その点において、スタインは学術世界の中に身を置きながらにして、見事にウィルバーの枠組みを活用しながら様々な仕事を残していったことは注目に価する。
それは一つの範を示してくれているように思えるため、これから少しずつシュタイナーの思想について学びを深め、その思想的枠組みを活用した小さな論文を執筆していこうと思う。小さな論文を書きながらでなければ、自分の考えを洗練させていくことはできないだろう。
テーマを芸術教育に置き、短い論文を書き進めていくことにより、様々な発見とテーマの深化が実現されるだろう。フローニンゲン:2018/10/15(月)08:51