先ほどテレマンに範を求めて作曲実践を行った。今朝は九時に起床したこともあり、日記を執筆していたり、作曲をしていたりするとあっという間に昼の時間を迎えた。午後からは旺盛に読書に励もうと思う。
午前中に、街路樹に二羽の鳥が休んでいる姿が見えた。二羽の鳥は街路樹の上で幾分くつろいだ後に、静かにどこかに飛び立っていった。
目の前に見える紅葉した街路樹が優しく揺れている姿が見える。街路樹も私たちも、揺れながら存在を深めていくことには変わりないのだなと改めて思う。
今日は月曜日なのだが、辺りは相変わらず静かである。秋のなんとも言えない落ち着きが目の前に広がっている。
今日も私は読みに読み、書きに書き、作りに作る一日を過ごしていく。そうした過ごし方と秋の雰囲気が相まって、毎日がどこか感謝祭のように思えてくる。
毎日が何かを祝う感謝祭として過ぎていく。そこには無情の充実感と幸福感がある。
昼食を摂る前に、先ほど一つ考えていたことがある。この現代社会において、本来ツールとして私たちが使うはずのものが、私たちをツール化しているのではないか、という現象について考えていた。
つまり、ツールを使う主体と客体の関係が入れ替わり、ツールが私たちをツールとして使うような事態が生じているのではないかということだ。例えば、人間発達においては、アセスメントと私たちの関係などはそうだろう。
本来、さらなる成長や学習につなげるために活用することを目的とするアセスメントが、いつの間にやら私たちの成長や学習を阻害するようなものに成り果ててしまっている。言い換えると、本来知性や能力を測定するためのツールであるアセスメントがいつの間にやら、私たちの存在を縛るものになってしまっているということだ。
さらに見過ごせないのは、アセスメントによって得られた結果によって、私たち自身の存在が商品化され、私たちの存在そのものが社会の中で単なるツールに成り果ててしまっていることだ。本来、アセスメントはさらなる成長や学習を通じて私たちに解放を実現させるためにあるはずなのだが、いつの間にか人間を制約するツールに成り果ててしまっている。
しかも私たちの存在は、そうしたツールによってこの社会におけるツールに貶められている状況にあるように思えてくる。現代社会は確かに便利なツールで溢れているが、それらのツールは暴走を始め、私たちの存在はますます単なる道具に成り果ててしまっているのではないかと危惧する。
取り上げているテーマは異なれど、この話題は今読み進めているパウロ・フレイレの問題意識とも合い通じるものがあるように思う。ツールのツールに成り果てることを防ぐためには、ツールそのもの及び自己の存在そのものと両者を取り巻く社会そのものの本質を考察できるような強靭な知性を育むことが不可欠であり、そうした必要性はますます高まるばかりであるように思えてくる。フローニンゲン:2018/10/8(月)12:13
No.1340: On a Solemn Morning
The sky of this morning is covered by clouds, and the atmosphere outside looks solemn.
I can see some colors in the dark gray world. Groningen, 08:34, Tuesday, 10/23/2018