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3203.【ボストン旅行記】ボストン美術館で体験した魂の充満


本日ボストン美術館を訪れている最中に、芸術鑑賞に関して一つ新たな気づきがあった。それは何かというと、真に自分にとって価値のある芸術作品は、自分の魂を大いに満ち足りたものにしてくれる、というものだった。

美術館を訪れたことによって、「お腹いっぱいのような感覚になった」という言葉を発する人がいるが、それはもしかすると、真に自分にとって意義のある作品とじっくり向き合うことをせずに、膨大な数の作品を単に消費しようとする姿勢によって生まれた感覚なのではないかと思う。

観光客の中でもよくありがちなのは、せっかく旅行に来たのだからと、一日に何箇所も慌ただしく観光名所を回ることである。だがここでもそうした行為は、結局のところ場所を消費していることに他ならないのではないかと思う。

そうした消費型の観光では、結局一つ一つの場所に対する印象が薄れ、何よりも一つの観光場所から得られる気づきや発見はとても希薄なものになってしまう。これは以前の日記でも言及していたが、各場所には土着神がいるのである。

これはいかなる場所においてもそうだと思う。そうした土着神を見つけ、それと触れ合うことをしなければ、その場所から固有に喚起される気づきや感覚は芽生えないのではないかと思う。

そして、そうした気づきや感覚こそがその人自身を深め、その人の人生を豊かにしていくということを忘れてはならない。場所を消費しようとする態度は、そっくりそのまま美術館鑑賞にも当てはまるだろう。

本日、ボストン美術館内の多くの客を観察していると、ほとんどの人が作品を慌ただしく次から次へと移動していく姿を目にしていた。おそらく、そうした鑑賞態度を持っている人は、美術館を訪れた後に食べ過ぎのような感覚に陥るにちがいない。

この問題は、学習における知識の詰め込みがもたらす弊害とも関連しているように思う。単に知識を詰め込もうとすると、脳がパンクするような感覚に陥ることは誰しも経験があるかもしれない。

ここでも一つ一つの知識と深く向き合い、それらを十分に咀嚼するという態度がないがゆえに、満腹感をもたらすのである。今日美術館を巡っていて興味深く思ったのは、自分の心の内側に響く作品に絞って鑑賞するようにし、それらの作品に時間を十分かけることをしていると、せわしなく単に次から次へと作品を見ていく時に生じる感覚とは別次元の感覚がもたらされることであった。

それはまるで魂が充足していく感覚と言ってもいいだろう。私はこの感覚を、ルドン、ターナー、モネ、ルノワール、ゴッホ、日本の仏像に感じた。

一見するとそのリストは長いように思えるかもしれないが、膨大な数の所蔵品のうち、それらはほんの15点ほどに過ぎない。今日の私はこれらの15点ほどの作品を丹念に鑑賞することによって、自分の魂が満たされていくような感覚がしたのである。

自分を育んでくれる真に意義のある作品は、自分の魂を鷲掴みにしてその場で立ち止まらせ、そして立ち止まってゆっくりとその作品と向き合うことによって、魂を満ち足りたものにしてくれるのだろう。

そうした発見があったというのは、まさに一つの自己発見でもあり、今回のボストン美術館の訪問は、インスピレーションと自己発見、そして魂の充足をもたらしてくれる素晴らしいものであった。ボストン:2018/9/30(日)19:37

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