時刻は午後の八時を迎えた。ボストンの現地時間の午後八時であるから、オランダではもう夜中の二時だ。
移動の疲れもあるだろうし、明日は早朝にスティーブ・サイデル教授のクラスに参加するので、今日は九時過ぎには就寝しようと思う。ボストンに向かう最中の機内の中で、私はボストンに吹く風について思いを馳せていた。
なぜそのようなことをしていたのかわからないが、ボストンではどのような風が吹いているのかが気になっていた。ある町を吹き抜ける風の香りや質感にここ最近敏感になっているのかもしれない。
それはなぜなら、風はその町に固有の感覚質を持つからである。そうしたことから、ボストンに吹く固有の風に想像を巡らせていたのだろう。
実際に今日ホテルに荷物を置いてから散歩している最中に、ボストンの風をたくさん浴びた。ちょうど今宿泊しているホテルは、チャールズ川が真ん前にあり、ホテルの自室からもそれを眺めることができる。
散歩の最中に、私はチャールズ川を架ける橋の上でしばらく佇んでいた。橋を駆け抜けていく風がとても気持ち良く、夕方のボストンの夕日も優しい温かさを持っていた。
橋の中腹で立ち止まり、チャールズ川を通り過ぎていく何艘ものボートを眺めていた。ハーバード大学のボート部の学生たちがボートを漕ぐ姿を私はしばらくぼんやりと眺めていた。
シングル、ペア、フォア、エイトのボートが次々にチャールズ川を通り過ぎていく様子をとても興味深く眺めていた。この優雅な川をボートで進んでいくのはさぞかし爽快だろうと思った。
もし仮に私がシングルでボートを漕いでいれば、きっといろいろなことを考えながら川を進んでいくだろう。川を下ることも上ることも、人生の進行に喩えられるに違いない。
残念ながら今の自分はボートには縁がないが、まるで自分がボートを漕ぎながらチャールズ川を進んでいく姿を想像しながら、しばらくぼんやりと考え事をしていた。何か目的を持って考えることなしに、チャールズ川にきらめく夕日の反射を眺めながら、時折心に浮かぶ取り留めのないことをこれまたぼんやりと観察していた。
自分の考えを見るようでいて見ないような不思議な感覚があった。ある特定の思考がボートであり、思考を生み出す意識そのものがチャールズ川のように思えた。
私はボートに囚われることもせず、チャールズ川にも囚われることもせず、その双方を同時に眺めているような感覚があった、つまり、思考と意識の双方をどこか天空から眺めるかのような、いや天空から眺めながらも同時にそれらと同一化しているかのような不思議な感覚があった。
「自分は確かにそれらを眺めているのだが、自分はそれらでもある」という感覚だったと言えば分かりやすいだろう。それを見ているのは私なのだが、見られているものも私であるという感覚。
あぁ、おそらくこれは見る者と見られる者との境界線が消失し、ある種の非二元の状態だったと言えるかもしれない。チャールズ川を架ける橋の上で、まさか非二元の意識状態に参入することになるとは思ってもみなかった。
今日チャールズ川をぼんやりと眺めていると、空のみならず、川にも何か自分を引きつけて止まないものがあることを再認識した。仮にボストンに住んでいれば、私はきっと毎日のようにチャールズ川沿いを散歩し、チャールズ川そのものと、そして川を進んでいくボートの姿を毎日眺めるだろう。ボストン:2018/9/27(木)20:24