昨日は、ミシェル・フーコーの“Madness & Civilization: A History of Insanity in the Age of Reason (1965)”と、ヘレナ・ブラヴァツキーの“The Secret Doctrine: The Synthesis of Science, Religion, and Philosophy (2014)”の第一巻を読み終えた。
今日は、ヨルゲン・ハーバーマスの批判理論に関する“The Critical Theory of Jurgen Habermas (1988)”という書籍を読み進めたい。ハーバーマスは発達心理学者のローレンス・コールバーグの道徳的知性の発達段階に関する理論にも造詣が深く、この理論に立脚した書籍も書斎の本棚に眠っており、近々そちらの書籍も読み進めていくことにしたい。
発達科学の世界に入り、今は発達科学そのものを俯瞰的かつ批判的に捉えるために哲学を学ぶ必要があると強く実感している。それは単に抽象的な議論に留まるものでは決してなく、私が関心を持っているのは、人間発達や教育に関する思想的な枠組みの是正のための哲学であり、そうした枠組みのさらなる発達につながるような実践的な哲学である。
哲学を学べば学ぶほど、哲学が実践的なものであると感じられるようになってきていることは以前の日記でも言及していたように思う。哲学が持つ実践的な側面は、ある実践領域の思想的枠組みを整備することにより、その中での実践のあり方や進め方が大きく変容する可能性を持っているということにある。
私たちのいかなる実践領域も、単に外面的な仕組みだけではなく、内面的な思想に立脚していることを忘れてはならない。人間発達や教育という実践領域も、まさに仕組みと思想の二つが相互に影響し合って初めて成り立つものである。
とりわけ私が強い関心を抱き始めたのは、思想的側面に関するものであり、その背景には、人間発達や教育に関する研究に従事する過程の中で、最先端と呼ばれる研究がこれほどまでに進んでいるのに対して、なぜ人間発達や教育というものがうまく進んでいかないのか、というもどかしさがあった。
それは端的には、人間発達や教育に関する技術は進歩しているが、技術を持ちいる個人や集合の思想的脆弱性に対して問題意識を持ち始めたと言える。現代社会においては科学技術の進展は目覚しいものがあり、実は人間発達テクノロジーや教育テクノロジーも随分と進化を遂げている。
とりわけこの二年間は、人間発達と教育を科学の観点から探究することに力を入れており、様々な研究者の仕事を見てきたところ、人間発達や教育を取り巻くテクノロジーは確実に進歩を遂げている。だが、技術的な進歩(外面的進歩)があったとしても、思想的な進歩(内面的進歩)が全く追いついていない状況はとても危険なのではないかと思ったのである。
昨夜も就寝前に、奇妙な問いと向き合っていた。「全人類及び地球を一瞬にして壊滅させることのできる人物は誰か?」という問いであった。
その問いに対する答えは単純であり、「すべての人間」というものだった。具体例として即座に思い浮かんだのは、その日に生まれた赤ん坊であった。
その赤ちゃんの目の前に、地球の全方位に飛んでいく核兵器のボタンを置けば、赤ちゃんがそのボタンを押し、地球を壊滅させることができるかもしれない、ということを考えていた。あえて私は極端な例を考えていたが、地球を一瞬にして壊滅させるだけの技術はすでにこの世界に存在しており、実はそれは赤ちゃんでも使えてしまうということに大きな危機意識を持った。
現実上は、赤ちゃんはそうした技術にアクセスできないように今はなっているが、現代社会においてそうした技術にアクセスできる人は増えてきている。一方で、そうした技術を活用する人たちの内面的発達が未熟であれば、それは悲劇的な大惨事を生み出しかねないだろう。
そのようなことを昨夜はしばらく考えていた。この事例のように、人間発達や教育を取り巻く技術は随分と進歩を遂げているのに対し、思想的な進歩がほとんど見られないことに私は危機意識を持っている。
人間発達や教育を取り巻く現代社会において、思想的な警察、いや思想的な裁判官のような存在や役割が強く求められているのではないか。そのようなことを思う。フローニンゲン:2018/9/23(日)08:08
No.1323: A Light in Mist
Groningen in the morning was slightly veiled in mist.
I was seeing a shining light in the misty world. Groningen, 08:51, Tuesday, 10/16/2018