モネのような色彩を帯びた朝焼けがもうほとんど見えなくなった。今はまた、日常の景色に戻った。
自然が生み出す景色というのは、生き物なのだとつくづく思う。先ほどはあのように美しい朝焼けを見ることができて幸運だったのだろう。
おそらく自分にあるのは、こうした幸運だけなのだと思う。私の人生は運を得ながら進んでいるというよりも、もはや運として進んでいるかのような感覚だ。
これまでの人生の歩みを考えてみると、自分の人生は運と一体化する形で進行していることがわかる。そうすると、感謝の対象は運のみならず、人生そのものになるのは必然だろう。
運が人生として、そして人生が運としてこれからも流れ続けていくことを願う。
昨日の午前中に協働プロジェクトに関するミーティングを終えた後にふと、暫定的な絶対的真実に基づいて日々を生きることの大切さについて考えていた。自分の内側の中で常にある種の正しさの感覚があり、それは諸々の事象の判断の際に耐えず活用されている。
この正しさの感覚は自分の中の真実に基づいて生み出されているのだが、それはその瞬間においては絶対的なものであり、同時にそれはさらに深まっていくという点において暫定的であるという気づきを得ていた。
こうした暫定的な絶対的真実を涵養していくことが内面の成熟なのではないかと思えてくる。涵養する方法は、耐えずそれに認識の光を当て、その正しさの度合い(幅と深さ)を検証していくことである。
自分が日記を耐えず執筆していることは、暫定的な絶対的真実の絶え間ない検証につながっているだろう。今日もそうした検証作業を行っていく。
学習は単に認知や内省によって成し遂げられるのではなく、アクションを通じた構築が必要になる。これはピアジェを含め、構造的発達心理学の根幹的な考え方である。
そしてこの考え方は、自分の暫定的な絶対的真実を発達させていく際にも当てはまる。認知や内省及びアクションを通じてそれを常に新たなものに更新していく。今日の一つ一つの実践はそこに向かっていくものである。
起床して一時間ほどが経とうとしている。今日はどうやら穏やかな土曜日になりそうだ。
今日は昨日に言及していたように、ミシェル・フーコーの処女作“Madness & Civilization: A History of Insanity in the Age of Reason (1965)”とヨルゲン・ハーバーマスの批判理論に関する書籍“The Critical Theory of Jurgen Habermas (1988)”を読み進める。
そして昨夜パラパラと眺めていた、ヘレナ・ブラヴァツキーの“The Secret Doctrine: The Synthesis of Science, Religion, and Philosophy (2014)”の中で自分の関心を引く箇所を丹念に読み進めていく。昨夜もまた、この書籍が放つ異様な力に少しばかり圧倒されていた。
フーコーの書籍にせよ、これから自分が読み進めていく書籍はできるだけ、そうした異様な熱気を持つ書物に絞りたいと思う。そうした書物こそが自分を真に深めていく。フローニンゲン:2018/9/22(土)07:41