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3155. 博士論文執筆への意欲


時間が経つごとに今日の天気は回復の方向に向かっている。今はすっかり晴れ間が広がっている。

昨日、無事に三つ目の修士号の修了証書を受領した。その際に、フローニンゲン大学の伝統として、証書の一枚目はラテン語で書かれており、ラテン語の文章を見たとき、どこか背筋を正されるような思いになったことを思い出す。

文理の区分を用いることには意味はないが、仮にその区分に従えば、文系の修士号を一つ、理系の修士号を二つ取得したことになり、いつの間にか科学寄りの自己が形成されつつあった。だが、昨年のプログラムの終わりに開眼したかのように、私は哲学へ傾倒していくことになった。

ここでは、「科学か哲学か」という二分法的な区分が存在しているわけではなく、科学を尊重した上での哲学探究に乗り出していきたいという思いが強くなっていたのである。確かに今後は哲学的探究を本格的に進めていきたいと思うが、科学的な書籍や論文を読むことはこれからもあるだろうし、それは必要なことだろう。

もう一つ、自分の中で生じている最近の変化は、もう二度と学術論文は書かないと思っていたのだが、今は博士論文を書こうという意欲が芽生え始めている。そしてそれは、非常に強い意欲だ。

以前の日記で書き留めたように、私の探究はもはや自分だけの探究に収まらないものになっている。探究をしているこの自己そのものが、何かしらの与えられた役割を全うするために探究を進めているということに気付き始め、探究成果を広く多くの人に共有していきたいという思いがある。

そうした思いは以前からもあったのだが、以前は逆にそうした思いから、学術論文という極めて少数の人にしか読んでもらえない創造物を生み出してもほとんど意味はないのではないか、という考えを持っていた。ところが今は、そうした創造物を生み出す過程の中で知見を共有していく道が少しずつ見え始め、また、執筆された学術論文の知見を広く世に共有していく方法が見え始めている。

そしてさらに私を博士論文の執筆に後押ししているのは、様々な協働者の方との日々の協働にあると言えるだろう。日々多様な関係者と協働を進めていると、いかに自分の知見が狭く浅いものかが手に取るようにわかる。

この世界へより深く関与していくためには、学び続けていくことが何より大切であり、同時に博士論文を執筆するぐらいの深い知見が必要であると日々実感するようになっている。こうした諸々の要因が重なって、今の私は博士論文の執筆に向けて意欲を燃やし始めている。

当然ながら、私たちの人生は予測不可能なものであり、なおかつ絶えず変化をしているものであるから、今後の自分の人生がどのようになるかはわからない。もしかしたら博士課程に進学しないという選択を取ることも十分に考えられる。

ただし今は、数年以内に博士課程に進学し、自分の役割を果たすための知見を獲得し、それを世に共有しながらこの世界に関与していきたいという思いで溢れている。フローニンゲンの街に太陽の光が満ち溢れているように。フローニンゲン:2018/9/21(金)15:37

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