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3145. ザカリー・スタインの論文より


時刻は午後五時を迎えつつある。今は少しばかり曇りがちの空だが、西日が書斎の窓から室内に差し込んでいる。

ぼんやりと外を眺めていると、「何かの足音」が聞こえて来る季節に入っているのだと知る。それは静かに進行している内側の変容の足音である。

夕方より、ザカリー・スタインの“Love in a Time Between Worlds: On the Metamodern “Return” to a Metaphysics of Eros (2018)”を読み始めた。スタインの仕事を参考にし始めてから、かれこれ八年ほどの時間が経つが、これほど長く一人の学者の仕事を継続的に追いかけ続けていることはないように思える。

ケン・ウィルバー、ロバート・キーガン、オットー・ラスキー、カート・フィッシャーなど、私に多大な影響を与えてくれた学者は数限りないが、その中でもスタインは私にとって特別な存在のように思える。

ジョン・エフ・ケネディ時代に初めてスタインの論文を読み始めてから数年後には、スタインはレクティカの共同設立者であったから、私がレクティカに在籍している時にはメンター役として様々な論文を送ってもらったこともある。

お互いの生活地が離れているために一度も直接会ったことはなく、五年前にボストンを訪れた際にはお互いのスケジュールが合わず、結局今もまだ直接会って話したことはない。だが、スタインは私にとって非常に大切な存在であり、彼の仕事にはいつも感銘を受けている。

今日はスタインの最新の論文を読んでいた。この論文を読みながら、様々なことを考えさせられたが、とりあえずその中から一つだけ書き留めておきたいと思う。

論文を読みながら考えていたのは、「現実世界の全ては幻想である」という危険な思想についてである。これは危険な発想かつ、かつ脆弱な知性から生み出されたものであることがスタインの論文を読んでいるとわかってくる。

この発想の危険性については言うまでもなく、それが極度なニヒリズムを生み出したり、幻想という名の下にいかなる利己的・暴力的な行動を助長しかねない危険性を秘めていることにある。一方で、私が着目していたのは、こうした発想を生み出す知性の質についてである。

スタインの言葉を用いれば、これはモダニストの発想(ウィルバーの段階モデルで言えば「合理的段階」)ではなく、ポストモダニストの発想(「相対主義的段階」)としてよく見受けられるものかもしれない。モダニストは一つの真実に固執する形で自らの主張を打ち出していくが、ポストモダニストは自らの主張を相対化する点に大きな違いがある。

ポストモダニストは多面的な視点を取れるという構造的な特性ゆえに、病理的側面を持つ。それはウィルバーの言葉で言えば、「多視点取得による麻痺」という現象だ。

これは無数の視点を取得することができるがゆえに、またそれらの視点を相対化してしまうがゆえに、結局拠り所にするべき真実が何なのかが極めて曖昧になってしまう現象を指す。「全ては幻想である」という主張は、拠り所にするべき真実さえもが相対化されてしまい、それがポストモダニストの病理的側面であるニヒリズム的な態度につながっているように思えてくる。

「全ては幻想である」という主張には、スタインが述べるように、絶えず質的に差異を内包するリアリティ構造を平準化してしまうという罠から生まれているように思えてくる。スタインが提唱する「メタモダニスト」というのは、ポストモダニストの後に発露する発達段階であり、この段階特性に関する説明は、これまでの発達論者の説明よりも随分と説得力のあるものに思える。

現実世界に地に足の着いた哲学者が高度な段階特性について非常に明瞭に説明を加えてくれているという点において、この論文は非常に価値の高い論文のように思う。前半後半そして結論部を合わせると、三部構成になっており、私はまだ前半しか読むことができていないが、明日には全てを読み終え、また何かを書き留めておきたいと思う。フローニンゲン:2018/9/19(水)17:18

No.1319: A Walk of A Little Bird

Watching a walk of a little bird, I can notice that it has various stories.

So do humans. Groningen, 15:39, Sunday, 10/14/2018

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