時刻は午後の七時半を迎えようとしている。西の空に今日も美しい夕日が輝いている。
今日は昨日の夕日と異なり、空が幻想的な色に変化しているわけではないのだが、引き込まれるようなオレンジ色の輝きを放っている。遠くの空に飛行機雲が小さく見える。それは、空に残された引っかき傷のように小さなものなのだが、夕日に照らされて白く輝いている。
それにしても今日は本当に暖かかった。昼食後に用事があり、フローニンゲンの中心部に行く必要があったが、町を散歩している時には随分と陽気な気分になった。
明日も今日と同じぐらいの気温のようなので、本格的な秋に入る前のつかの間の暖かさを享受したいと思う。ひょっとすると、今日と明日の暖かさは秋からの贈り物なのかもしれない。この贈り物に返礼するためにも、夕食後からもまた自分のライフワークに取り組んでいこうと思う。
先ほど夕食を摂りながら、成人発達理論に関するよくある誤解について考えていた。確かに、成人発達理論においては、垂直的な発達構造の重要性が強調される傾向にあるため、その傾向に埋没する形で、水平的な発達をないがしろにする人が多いように思える。
いや、一般的には水平的な発達を重視する傾向にあるのだが、とかく成人発達理論の枠組みに触れた途端に、人は垂直的な発達を推し進めることに躍起になる傾向があると述べた方が正確だろう。
先ほど疑問に思っていたのは、果たして人は自分が思っているほどに十分な水平的発達を遂げているのだろうか?という点である。つまり、人は自分が想像している以上に水平的発達を遂げておらず、自らの適性を真に見極めるような十分な探索を経験していないのではないか、ということを考えていたのである。
それこそ既存の教育の枠組みにがんじがらめにされてきた場合、自らが本来持つ多様な知性の可能性を探索することをせず——あるいはそれが許されず——、社会が期待する極めて限定的な知性を一生懸命涵養することに膨大な時間を費やしてきたと言えるのではないだろうか。
そこでは教育というものが私たちに自由と解放をもたらすという本来の役割を果たしておらず、結果として私たちの自由を制限し、知性の発達における束縛を招いてしまったという問題が見えてくる。
多くの人は自分の可能性や適性を真に探索する機会に恵まれず、結果として非常に限定的な知性に基づいて日々を生きているのではないか、という問題意識が立ち上がった。ここで述べている「探索」という言葉は、二年前に私の論文アドバイザーを務めてくださっていた発達心理学者のサスキア・クネン教授の言葉である。
いかなる領域の発達においても、まずは自らの可能性や適性を模索する探索の時期が必要となる。多くの人たちは、それを剥奪されたまま大人になってしまったのではないかと思わされる。
垂直的な発達を希求するというのは、本来十分な探索を行ってからでいいのではないかと思う。自らの可能性や適性を思う存分に探索した後に、一つの領域——あるいは少数の領域——への「関与」が始まる。この「関与」という言葉もクネン教授から教えてもらったものである。
ここでもまた、現代社会には大きな問題がいくつかある。一つは、そもそも垂直的な発達という現象が広く認識されていないことである。もう一つは、十分な探索を行うことを許容しない文化と仕組みと同様に、十分な関与を促進しない文化や仕組みが存在していることだろう。
発達を抑圧する文化や仕組みの存在に気付かない限り、個人は自らの知性に関する十分な探索と関与を実現させていくことはできないだろう。人間発達について学べば学ぶほど、発達を取り巻く現代社会の問題が山積みであることに気づき、その根は絶望的に深いことに気づかされてばかりである。
それらの問題に対していかように向き合っていくべきかを問われているような気がしている。フローニンゲン:2018/9/18(火)19:48