今日はもう日記を書くまいと思っていたが、文章に書き留めておきたい強い思いが湧いてきた。とにかく勉強をしたい。とにかく学びたという抑えがたい気持ちが自分の中から込み上げてくる。
一生自らの無知と向き合うという覚悟を持ってから、無知と真に向き合うためには激しい学びが必要になることを知る。とにかく今まで学んできたことを一旦忘れよう。いやそれを忘れる必要はないのだが、一から学び直しを行おう。
欧州での生活が三年目を迎える頃、今の自分はまだ何も学んでいないという思いがより一層強くなった。それは主観的な思いではなく、客観的に見てもうそうだ。
学習に対するこの抑えがたい衝動は、ジョン・エフ・ケネディ大学に留学することを決意した時や、フローニンゲン大学に留学することを決意した時に生じていたものと似ているかもしれない。私は二つの大学院を通じて本当に多くのことを学んだ。
それらの学びはとても貴重であり、学んだことは全てその場所でしか学べないことであった。だが、今私が感じている学習衝動は当時の衝動を遥かに凌ぐ。
当時の私は自分が無知であるという自覚はなく、無知さに気づかないほどに無知であったと言える。また、当時は探究の喜びに突き動かされ、自分の探究衝動を満たすために留学をしたと言える。
しかし今はそうではない。自分のための学びはもう止めにしたことを以前の日記で書き留めていたように思う。
確かにこれからの学びも自らの関心に基づいたものになるが、それは全ての学習における前提条件であり、これからの学びも自分の内側に起こる純粋な学習衝動に基づいて行われることは確かだ。だが、これからの学びは、自らの人生に与えられた役割を全うするために学びを行う。
そこが決定的に違う点だ。もはや学びの原動力は自己だけにあるわけではないのだ。
恐れずに言えば、それは全存在の中にある。自己を超えたところに自分の学習衝動の根源があるのだ。
とにかく自分の役割を全うしたいという思い。そのためには、これまで積み上げてきた学びなど塵のようなものだとみなす必要がある。実際にこれまでの探究成果など塵のようなものだ。
ここからの学びは、これまでの学びよりももっと激しいものになる。そうならなければ、そうするようにする。
そうしようと望んでいるのは自分ではない。自分を突き動かす何者かだ。
自分の学びに関してとやかく口を挟む人間はいないが、仮に世間からの声が聞こえたら一切耳を傾けないようにする。それは肯定的・否定的なもの双方においてである。
敬愛する森有正先生の英断について思い出そう。東京大学の助教授を辞めて、40歳を過ぎてからフランスに渡ったことを思い出そう。
何度も言うが、一人の人間の学びの価値は、職業や金銭で判断されるようなものではない。私は25歳で会社を辞めてから、その後の肩書きは常に無職か学生だ。
確かに過去五年間は日本企業との協働プロジェクトに従事し、インディペンデント・コントラクターの立場にあるが、それは定職を持っていないことを意味する。おそらく今後もそのように生きていくだろう。
地位や金銭を獲得するために大学教授になることは必ず避ける。おそらく私は大学教授になどならないように思える。森先生のように、講師として一生涯をかけて自分の探究に全てを捧げることは十分に考えられる。
とにかく今日から再び自分の探究を旺盛に進めていく。また一からやり直す。
日々は常に新たな出発なのだ。やり直したかったから今日からやり直せばいい。今この瞬間からやり直せばいい。
私は常に学び直しを自らに課そうと思う。なぜそのようなことをするのだろうか。自分の人生に与えられた役割がそうするように自分に語りかけているからだ。
その声を無視することなどできはしない。とにかく一から学び直す。誰も見ていないところでただひたすらに学ぶ。
読みに読み、書きに書き、作りに作る。自分にできることはそれしかないし、それに従事することが自分の人生に与えられた役割であり、それらに従事することが自分の人生に他ならないのだから。フローニンゲン:2018/9/15(土)18:17