昨夜改めて、自分の学習特性にどれだけ習熟しているかが大事であるということを考えていた。多くの人は学習や発達のプロセスについて知らないだけではなく、実は自分の学習特性についても知らないのではないかと思う。
ハワード・ガードナーの多重知性理論を引用するまでもなく、私たちには各人様々な知性が備わっており、それは種類も異なれば質的にも異なる。本来、そうした差異を持つ知性に対して画一的な学習は有効ではないのだが、それでも多くの人はそうした学習を自らに課す傾向にあるように思う。
それはやはり、自らの学習特性、そして知性の特性を深く理解していないからではないかと思う。私はフローニンゲン大学の一年目のプログラムで、様々な領域で卓越した人たちの発達要因について研究をしていた。
当時の研究を思い出してみると、ある領域で卓越した能力を発揮する人たちは、総じて自らの学習特性を内省的に知っている傾向が高いことに改めて気づく。例えば、彼らは実践の過程において、何か問題が生じた場合には、自らで問題を解決し、軌道修正をしていく力がある。
絶えず問題を内省的に捉え、自分の能力と問題の双方を照らし合わせながら問題の解決に当たっていく。そしてひとたび問題が解決されれば、そこから新たな課題を発見する方向に向かい始める。
このように、ある領域で卓越している人たちは、問題そのものと自己を内省的に見つめる視点が強固に確立されており、絶えず問題と自分の双方の特性を鑑みながら継続的な学習を行える特徴があるように思えてくる。
時折、「成長や発達のために何を学べばいいですか?」という質問を受けることがあるが、その回答としては、個別具体的なトピックを学ぶよりも、自らの学びのスタイルや知性の特性を学んだ方がいい、というものになるだろう。
自らの学びのスタイルや知性の特性に無知なまま学習を続けても、それは本質的な成長や発達に繋がらないだろう。
今朝も風は穏やかで、時折街路樹の葉が静かに揺れているのを確認することができる。そういえば今朝方は印象的な夢を見ていた。
夢の中で私は、海の見える大きな結婚式場にいた。そこには特別ゲストで、長年にわたって大リーグで活躍しているある野球選手がやってくることになっていた。
会場の人たちはそれを楽しみにしているようであり、彼らの様子は幾分落ち着きがない。だが、その野球選手の長年にわたる活躍を考えてみれば、それも仕方ないと思う。
私はしばらく会場の中をブラブラしながら、時折窓の外に広がる海を眺めていた。誰の結婚式かわからないが、式の始まりが近づいてきた。
式の始まりに合わせてその野球選手が登場することになっており、会場の緊張と期待が高まっている様子がひしひしと伝わってくる。式が開始の時間を迎えた。
ところが、その野球選手の姿は見えない。5分経ち、10分経ってもその選手は姿を見せなかった。
そこで式を運営するマネジャーのような男性がその選手に電話をかけた。どうやら渋滞に捕まっているらしかった。
だが幸いにも、電話をして数分経たないうちにその選手は姿を現した。会場からは盛大な拍手が送られた。
その選手は最初に遅刻について謝罪し、そこから乾杯の音頭を取り、式が盛大な形で始まった。実はその選手は一人で会場にやってきたわけではなく、彼の後ろには米国人のたくさんの友人がおり、会場にいた人たちはどこか気後れするような表情を見せていた。
式が始まり、会場全体を改めて眺めていたところ、その野球選手が私に声をかけてくれた。
野球選手:「やぁ、洋平くん。元気?」
私:「ええ、お陰さまで元気です」
野球選手:「これ、洋平くんにあげようと思って持ってきたんだけど。いる?」
野球選手の手元を見ると、野球ゲームがあった。それは確かにテレビゲームなのだが、バットに関しては本物に似た様なものを使い、画面から現実世界に向かってボールが投げられ、それを打ち返すゲームだった。
試しにその場でゲームをしてみることにした。最初は、画面から突然現実世界に向かってボールが飛び出してくることに驚き、なかなかバットに当てることができなかったが、その選手からコツを教えてもらうことによって、徐々にバットに当てることができるようになった。
最後に、私の方からその選手にお願いをして、手本を見せてもらうことにした。すると、それまでゲームで使っていたバットではなく、実際に試合で使っている本物のバットを手に持ち、画面から飛び出してきたボールを見事にホームランにした。
それを見て私は感嘆の声をあげ、拍手をした。ちょうど近くにいた人たちも皆一様に拍手をしていた。
最後に、その野球選手は一言述べた。
野球選手:「このゲームを130円で売ってあげるよ」
確かにそのゲームはこれまで見たことのないようなものであり、それを新品で購入すると相当値が張るのだと思っていた。それを130円で購入できるというのは非常に安い買い物なのだが、普段ゲームをすることはなく、しかもそのゲームに付随しているバットがやたらと重くかさばるため、しばらく返答を待ってもらうことにした。
その選手はにこやかな笑みを浮かべ、その場を後にした。そこで夢の場面が変わったのを覚えている。
その後の夢の中では、哀しみか、もしくは感動による涙を流していたのを覚えている。だが、それがどのような場面であったかは正確には覚えていない。
それにしても、あのゲームに付けられていた「130円」という値段がとても気になる。「130」という数字の意味についてあれこれ考えたくなってしまう夢だった。フローニンゲン:2018/9/14(金)08:32