やはり問題は自分の学びが圧倒的に不足しているということであり、その他に問題の拠り所を見つけることは難しい。自分の魂が学びを渇望しているような感覚がするのである。
これは精神分析学的なシャドーの問題というよりも、私の魂の問題であるように思えてくる。あるいは、自分の魂の特質と関係していると言ってもいいかもしれない。
自分がどれだけ無知であるかは自分が一番よく知っている。他者が自分に対して何と言おうともそれに耳を傾けてはいけない。
他者は自分を過大評価するか過小評価するかのどちらかしかできないのではないかと思われてくる。自分の身の丈を一番知っているのは自分である、というところまで自己認識を深めていく。
自分の無知さは、社会へ関与していく活動の質に大きな影響を与えている。社会へ関与することは、社会と繋がることであり、同時に自己と繋がることを意味する。
その関与の質が低いというのは、社会と自己との繋がりが脆弱であるということを意味する。そして、それが今の自分を苦しめているようなのだ。
社会と自己に深く繋がれない人間存在は本当に孤独なのだと思う。それは自らを深める意味での孤独ではなく、精神病理的な孤独である。
孤独にも様々な種類と質的差異があることを認識しなければならない。自己を深め、社会に深く関与していくために必要な孤独と、自らを蝕んでいく孤独の違いを見分けなければならない。
社会や自己と深く繋がっていくための手段は学びしかないのではないかという考えが芽生えている。しかも、それらとの繋がりをより深くしていくためには、本当に継続的な学びしかないように思えてくる。
一体自分はどこまで学べばいいのだろうか。その問いに対しては、人間発達の根幹に立ち返ることが肝要だ。
学びは一生涯続いていく。一生涯続く学びを強く希求しているのは自己ではなく、自分の魂のようなのだ。
魂の声に耳を傾けること。多くの人はそれをしない。だがそれをすることがいかに大切なことか。
とにかく私は、自分の魂の声に耳を傾け、その声に導かれるようにして生きていきたいと思う。一生学び続けていくというのは、言葉を変えれば、無知な自分と一生向き合っていくことを意味する。
その行為の尊さと勇敢さについて思いを巡らせる。成人になって以降も学び続けている人を嘲笑するような人もいるかもしれないが、そうした人は結局、無知な自分と向き合うことを暗に避けているのだと思う。
もしくは、無知な自己を発見する恐怖とそれと向き合う恐怖を抱えていると言えるかもしれない。自分が学び続ける者であることに対して、世間はいろいろなことを言うかもしれないが、そうした声には一切耳を傾けないようにする。傾けるべき声がなんなのかを自分はもう知っているのだから。
自らの魂の声に耳を傾け、自分の無知さと一生涯向き合っていく。そう決意させてくれるような朝だ。フローニンゲン:2018/9/12(水)09:07