昨夜から今朝方にかけて十分な睡眠を取ったにもかかわらず、どこか活動に鈍さが見える。先ほどドビュッシーの曲に範を求めて作曲をしてみたが、どうもうまくいかず、生まれた曲は今感じている鈍さを表すようなものだった。
流れるようなダンスではなく、まるでダンスの破片のようなものが内側に留まり続けているかのような感覚があり、それがそのまま曲として表現された。こうした状態も一時的なものだとわかっているので、こうした時こそ、ゆっくりと物事を進めていくのが賢明だろう。
今から少しばかり、今の自分が最も読みたいと思う書籍を読んでいく。シュタイナー教育に関する書籍を読んでいこうと思う。
先ほどまでは朝日の光が地上に優しく降り注いでいたのだが、今はまた空が雲に覆われている。早朝には吹いていなかったような風が吹き始めている。それは強くないのだが、どこか寒さを感じさせる風だ。
早朝、「あの人の最後の言葉は何であったのだろうか。自分の最後の言葉は何なのだろうか」ということを考えていた。なぜそのような考えが生まれてきたのかはわからない。
私たちの心は本当に予測困難な複雑な生態系である。心の世界のどこかで蝶が舞う時、それはいつか全く予想のしない心の場所で台風を引き起こすかもしれない。人間の心の複雑性を改めて思い知る。
自分が発した最初の言葉は何であり、最後の言葉が何なのかに関する関心。人は必ず最初の言葉を発し、そして最後の言葉を発する。
一体、自分はこの人生の最後に何と言葉を発するのだろうか。最初の言葉から最後の言葉に向かっていく旅。それが人間の人生なのかもしれない。
外側の世界がいかに雲に覆われていようとも、内側の世界がいかに雲に覆われていようとも、自分にできることはゆっくりと進むことである。ゆっくりとでいい。時に立ち止まりながら、ゆっくりと歩みを進めていく。
日々雑多なことを考え、様々な感情が内側の世界に生起する。そうした中で、時に自分がどこに向かっているのかわからなくなることがあるが、そもそもどこに向かっているかなどわからなくて当然だ。
この広大な心の世界のどこかで蝶が舞えば、今の自分には全く予想のつかない場所でその蝶は再び舞うだろう。いや、その時にはもはやそれは蝶の形をしていないかもしれない。
それは一つの思いや考えに変容し、一つの心象イメージに変容している可能性が十分に考えられる。一匹の蝶が内側の世界で舞い、それは転生するのだ。
私たちの内面世界の物語は、きっとそのように進行している。
念のため、自分が今いる場所を確認しておこう。今私はオランダ北部の町、フローニンゲンにいる。フローニンゲンの自宅の書斎でこの日記を書いている。
いつかこの日記が、今の私には全く想像できない何かに変容している姿がどことなくイメージされる。それが何なのかは誰にもわからない。フローニンゲン:2018/9/10(月)10:48