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3096. 固有の発達特性・学習特性


今朝は七時前に起床し、七時半頃からゆっくりと一日の活動を始めた。今朝も改めて、早朝の気温が随分と下がっていることに気づいた。

もう最高気温は20度以下になり、最低気温は10度ほどになりつつある。まだ九月が始まって間もないのだが、そのような肌寒さを感じさせる気候になった。

今日も早朝の空には雲がかかっており、朝日を見ることはできない。今日は一日を通して曇りのようだ。

日記の執筆を通して日々を振り返っていくということ、そして一つ一つの実践や学びを振り返っていくことが無意識的な習慣になった。こうした習慣を通じて、自分が日々をいかように生きているのか、さらには自分の精神の働かせ方や学びの特性などが見えてくる。

現代人の多くは他人に無関心なだけではなく、自分にも無関心なのではないかと思われる。それは端的には、多くの人が自分の学びの特性について理解していないことに現れている。

ここ最近よく思うのは、発達科学や学習科学の知見を学べば学ぶほど、自分の探究活動が豊かになっているということであり、一方で、それだけでは不十分だということである。そうした科学的な知識は、基本的には一般化された知として共有されている。

それらの科学領域における知は、科学的な実験などを通して、広く多くの人たちや状況に当てはまるのかが確認された後に共有されていく。もちろん、ケーススタディなどのように個別性に着目した研究手法があることは確かだが、そうした手法においても、結論は一般化の方向に向かっていく傾向があるのは確かだろう。

発達や学習に関する科学的な知を得ていくということは、自己や他者の発達を実現していく上で極めて重要だが、それだけでは不十分である。とりわけ、自己(あるいは特定の他者)の発達を考えた場合、固有の発達特性と発達プロセスを自ら理解していく必要がある。

要するに、科学的な知にすらならないような個別的な知を自ら獲得していく必要があるということである。さもなければ、真に自分を深めてくれるような学びを実現するのは難しいだろう。

だが、自分に固有の発達特性と発達プロセスを自ら観察し、それらを掴んで行こうとしている人が一体どれだけいるのだろうか。ここで述べている個別性というのは、もはやタイプ論の範疇を超えたものである。

タイプ論ですら一般化された知識である。自分自身の発達特性や学習特性をタイプ論を超えて把握していくことの意味を最近強く感じる。それだけ私たち一人一人はユニークな存在であり、発達や学びの形は多様なのだ。

一にも二にも自己観察を続けていくことの意義はそこにあるだろう。むしろ、それをしなければ、自分自身の発達特性や学習特性を真に理解することなどできない。できることは、一般化された知に依存し続けることか、はたまた自分自身の発達特性や学習特性に無知のまま生涯を過ごしていくかだろう。

自己を観察する上で、やはり日記の持つ意義を強く感じる。日々自分の内側に生み出される差異に気づき、新たな差異を生み出していくこと。いや、自分固有の差異に気づくだけではなく、それがどれほど固有な形で生み出されていくのかに気づくことも大切だ。

差異は日々の微細な変化と言い換えることができる。変化は認識の光が与えられて初めて真の変化になる。

変化そのもは多分に生物的・生命的であるため、生物・生命の成長に日々の栄養が必要なように、私たちの変化も認識という栄養が必要になる。変化には面白い特徴があり、変化に気づけば気づくほど、その変化は自発的に育っていく運動を見せる。

これは複雑性科学の言葉で言えば、「自己組織化(self-organizaiton)」という現象である。そうした自己組織化を導いていくのが日々の振り返りであり、その最良の手段はやはり日記の執筆であるように思えてならない。フローニンゲン:2018/9/9(日)07:53 

No.1306: A Dance of Autumn

Today is peaceful as usual, and at the same time, it has a convivial atmosphere that encourages me to dance.

Letting go of myself to a dance of autumn, I’ll fully engage in my academic and creative work. Groningen, 09:25, Wednesday, 10/10/2018

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