早朝に降っていた雨は昼前には止み、午後は秋晴れの空が広がっていた。その時間は辺りがとても静かに感じられ、午後の静寂なひと時を味わっていた。
先ほどまで雨が止んでいたのだが、つい今しがた天気雨が降り始めた。とても綺麗だ。
黄金色に輝く空を背景に、目の前には雨が地上に降り注いでいる。天気雨に打たれる街路樹もどこか嬉しそうである。天気雨をこうして眺めている私自身も確かに嬉しさの感情を感じている。
早朝の空には幾層もの異なる雲が積み重なっており、それを眺めていると、いつも以上に、自分の内的感覚が謎めいたものになっていることに気づいた。言語的な表現を超えた感覚が自分を取り巻いており、それを曲とデッサンで表現することにした。
なぜか生み出された曲は、紫色の一編の詩が編まれるような感覚を想起するものが出来上がった。より具体的には、完成したその曲を聴いてみると、紫色の曲線と、幾分濃いい青色の小さな円がいくつか知覚された。
それらの曲線にせよ円にせよ、そして紫や青といった色にせよ、それらはその時の私の内的感覚の動きと心象イメージに対応している。自分の内的感覚の動きと心象イメージを観察すればするほどに、その不思議な働きに驚かされる。
知的な理解を超えた現象が常に自分の中に起こっていることに気づく。それらの現象が持つ意味を頭の中だけで理解しようと思ってもほぼ不可能であり、それを形にしてみて初めて、新たな気づきや発見がもたらされる。
一方で、それを形にしてみても、知的理解を超えた未知な要素が多分に残っていることは紛れもない事実だろう。しかし私は、形にして初めて開ける世界の存在に気づいてしまったがゆえに、これからも内的感覚や心象イメージを形にし続けて行くだろう。
デッサンに関しても同様に、形になるものは自分の内的感覚の動きや心象イメージに対応している。描かれる絵は、まさに内的感覚の動きが一つのまとまった形になり、それが心象イメージとして知覚されたものなのだと思う。
先ほども過去に描いてきた一連のデッサンを見返してみたところ、その多様さには随分と驚かされた。毎日異なる内的感覚や心象イメージが浮かんでは消えていることを知る。今後は、形なって生み出されたものを貫く主題は何か、どのようなパターンが見出され、それは何からもたらされているのかを考察してみたいと思う。
日記を書き留めていると、天気雨が止んだ。いつの間にか雨雲もどこかに消え去っており、今は夕日が燦然と輝いている。
これから入浴をし、夕食を摂ってから、就寝前の時間を再び仕事に充てたいと思う。フローニンゲン:2018/9/7(金)18:42