時刻は午後の三時を過ぎた。日曜日が静かに進行していく。
今日は午前と午後を合わせて今のところ二曲ほど作曲をした。以前の日記で言及していたように、不協和音をいかに組み込んでいくかに関して小さな実験を少しずつ始めている。
当然その試みは上手くいかないことの方が多いが、こうした試行錯誤は技術の涵養に不可欠である。とにかく失敗に次ぐ失敗を経験するための実験を多く行っていく。
積極的に失敗をすることは学習において不可欠であろう。そのようなことを考えていると、我が国においては失敗の仕方に関する教育がなされていないのではないかという問題意識を持った。
どうも多くの人の中には失敗を恐れる思考回路が形成されてしまっているようであり、失敗を積極的に行うための実験に乗り出す意思が涵養されていないのではないかと思われる。あるいは、そもそも本来失敗と呼べないようなことでさえ失敗とみなしてしまうような固定観念が多くの人に染み付いていることは大変気がかりである。
正直なところ、人生において失敗と呼べるものを見つけることは難しい。どれほど難しいかというと、自分の使命や天職を見つけるぐらい難しいのではないかと思う。
多くの人が失敗だと見なしていることは本質的には失敗ではないものばかりである。それは一時的——あるいは瞬間的——に上手くいかないだけの事柄であって、そうであるにもかかわらず、それに尻込みをしてしまいがちである。
完璧に思えるコンピューターでさえバグがあるのであるから、私たち人間がなすことが完璧ではないことなど当たり前すぎることのように思えるのだが。小さなバグが見つかればそれを修正していけばいいだけの話であり、何かに挑戦して上手くいかなければ、思考を巡らせて次の挑戦の時に上手くいくようにすればいい。あるいは上手くいくのは次の次、さらにその次でも十分だ。
私は毎日失敗の連続から少しずつ学びを得ている。それは作曲においてもそうであるし、その他の探究活動においてもそうだ。
自分の身になるような知識というのは、最初は誤解から始まることが多い。自分の誤解が最初にあって、それと対立するような知識項目があり、自らの誤解とその知識項目の双方と向き合うことによって、徐々に自分の誤解が修正されていくという経験を日々している。
最初は常にわからないことだらけであり、何をするにも、何を学ぼうにも、基本的には失敗と誤解しかない。そうした前提に立って、絶えず新たな試みに乗り出していきながら日々の学びを深めている。
我が国の教育においては、失敗の仕方に関する教育がなされていないことはもちろんのこと、それよりも事態は深刻であり、失敗を恐れる思考回路が無意識のうちに構築されてしまう仕組みになっていることではないかと思う。
そうした教育を受けてきたことによって、多くの人は新たな試みに乗り出していかないか、それとは真逆に無茶なことに乗り出していく。自らが失敗と思っていることが実は失敗ではないという自己矯正的な気づきを育み、常に新たな実験と検証に乗り出していけるような思考回路を育んでいくことが大事だと思う。
異国の地で生活を営んでいると、そうした思考態度がどれほど重要かがわかる。フローニンゲン:2018/8/19(日)15:38
No.1244: Today’s Music Composition
I’ll compose music based on Mozart’s work from now.
I wish the new piece of music will make me feel light and cheerful. Groningen, 09:13, Thursday, 9/20/2018