今日もまた一日が終わりに向かっている。時刻は午後の六時を迎えた。
この時間帯のフローニンゲンはまだ真昼のような明るさを持っている。だが時刻としては夜に入りかけていると言っても良いだろう。
夕方にかかり付けの歯医者を訪れ、半年に一度の歯のクリーニングをしてもらった。行きも帰りも日向は暑さを感じさせた。一方で、日陰に入った時の涼しさはフローニンゲンの特徴の一つだろう。
この時期は夏期休暇の時期だからか、歯医者の待合室には先週の定期検査の日と同様に、今日も人が少なかった。歯医者で顔を合わせたのは、私のクリーニングが終わる間際にやってきた一人の患者だけだった。
先日の定期検査で担当の歯科医から助言があったように、これからは毎日のコーヒーの量を減らし、ブラッシングにもより気を遣いたいと思う。幸い、半年前から今回にかけて虫歯はなく、歯肉の状態も含めて極めて良好だったのだが、歯に付着した色素についてだけ忠告があった。先日以降からコーヒーの量を減らし、今ではそれがすっかり習慣となっている。
今日はこれから、先日のインタビュー記事の原稿に目を通し、必要な修正をしてからライターの方に送りたいと思う。原稿が送られてきてすぐに全体を眺めてみたところ、見事に内容がまとまっているように感じたため、修正箇所は言葉の言い回しぐらいになるだろう。
原稿の修正が終わったら、夜に再度作曲実践を行う。今日は早朝にバッハに範を求めて一曲作り、昼食の前後にテレマンに範を求めて一曲作った。夜は、バッハの四声のコラールを参考にした曲を作ろうと思う。
今日も午後に、絵画作品の鑑賞から得られた内的感覚を曲にしたいという衝動が芽生えた。自己の存在を捉えて離さない絵画作品を眺めながら、作品から喚起されるものを曲にしていくようなことを近々行い始めるような予感がある。
もちろん、今の技術では思うようにいかないことだらけだろう。だが、どんなにそれが未熟だと他者から思われても、自分の内側にはそうした創造衝動が芽生えている。
自分の魂と共振している画家の作品を眺めながら、喚起されるものを曲として形にしていく。同じ作品をテーマに何度も曲を作ってもいいかもしれない。
仮に自分の内側が成熟の歩みを進め、作曲技術がゆっくりと進歩しているのであれば、同一の絵画作品を取り上げたとしても、そこで得られる感覚は深まっているであろうし、それによって生み出される曲にも変化が見られるだろう。
今この瞬間にも思うが、毎日が平穏な気持ちで開始され、その平穏さは一日を通して消えることがない。今朝の起床時に拝んだ朝日の輝き。それを眺めていた時の自分の心の様子。
平穏な心で一日を始め、平穏な心で一日を終える。そして、一日を通して平穏な心を持っているということ。これはとても大切な生き方のように思えてくる。
このような日々を送っていると、生誕も死も平穏さの中にあるのではないか、と思えてくる。始まりも終わりも平穏であり、実はそのプロセスそのものも平穏な流れの中で営まれているのではないかと思えて仕方ない。
始まりも終わりもプロセスも、それが荒れたように思えるのであれば、それは認識の罠に囚われている証拠かもしれない。それらは本質的には荒れることなくただそこにあるものなのだと思う。フローニンゲン:2018/8/2(木)18:17
No.1195: Autumn Noon after the Rain
It stopped raining, and I can see the beautiful autumn sky now.
I’m enjoying this serene moment at noon. Groningen, 12:17, Friday, 9/7/2018