早朝の空を覆っていた薄い雲が晴れ渡り、今は青空が広がっている。爽やかな風が吹き、街路樹を揺らしている。
外の世界に風が吹くとき、自己を取り巻くゆりかごが優しく揺れるような感覚になる。この世界は大きなゆりかごだったようだ。鳥たちがそのゆりかごに揺られながら、安心して大空を舞っている。
多くの人は見過ごしがちかもしれないが、空気にも肌があり、建物にも肌がある。生物のみならず、無生物にも肌があるのだ。
そう考えると、常に私たちは他者の肌と触れ合っていることになる。この世界は肌で構成されており、肌の充満性しかそこにないということを忘れている現代人が多すぎるように思えるのは私だけではないだろう。
表面的な人間関係。外見上は物を愛しているように見える現代人も、実際には物すらも深く愛していない。彼らは一様に肌を認識することができず、肌のぬくもりに気づけていないのだ。
今日はこれからテレマンに範を求めて一曲ほど作り、散歩がてら近所のスーパーに買い物に出かける。早朝にバッハに範を求めて一曲作った際に、参考にした曲はとても短いものでありながらも、そこにはやはりバッハの深い音楽世界が体現されていることに気づく。
バッハの音楽から汲み取れることは本当に計り知れない。これから何年もの時間をかけてゆっくりと汲み取れるだけのものを汲み取っていく。
手元にあるバッハの楽譜の全曲を参考に一度曲を作り終えた時、バッハが少しばかり近づいてくるだろう。そしてその頃には、少しずつ自分の作曲語法のようなものが確立されていることを願う。
これから参考にするテレマンの曲からどのような気づきや発見があるのか今から楽しみである。偉大な作曲家の楽譜をスキャフォールディングにして無数の曲を作り、作曲の過程の中で徐々に自らの音楽的な感性を育んでいくこと。それを怠らないようにする。
昨日ある出来事がきっかけで再度考えさせられたが、表現者の自己を確立する際に他者の様々な声が聞こえてくるが、ことごとくそれらの声には耳を傾けないことが大事である。
ゴッホは自らを頑固者と述べていたが、そうした姿勢は表現者としての自己を確立する必須の素養であるように思う。そうした態度を貫けば、当然ながら独りよがりと世間から思われることもあるだろうが、それもまた発達プロセスの一種に過ぎない。
独りよがりと評される地点を越えた先に固有の表現者としての自己が確立される。世間は身勝手に様々なことを表現者に述べ、表現者を引き下げようとする。そのため、世間の声には一切耳を傾けないことが賢明だ。
また、最近よく思うが、表現者の創造活動に口出しをする者のほぼ全員が、自らは表現者ではないという皮肉な状況が見て取れる。彼らは何らの表現活動にも従事していないのだが、口だけは出そうとする。
そうした人間の声には一切耳を傾けないこと。それは今の自分にも大切な教えとして響く。フローニンゲン:2018/7/19(木)11:25
No.1145: A Whispering Sandglass
I’ve recently often felt that the flow of time is so slow.
Even though time is irreversible, I can feel as if the time indicator of a sandglass were moving the other way around. Groningen, 09:16, Friday, 8/24/2018