作曲において問題意識を持つことの大切さについて先ほど書き留めたが、それは何も作曲実践だけに当てはまるのではなく、他の実践領域にも等しく当てはまるだろう。
昨日も考えていたように、例えばデッサンの技術を向上させることや芸術教育の意義に関する理解を深めるということにおいても問題意識を持つことは重要になる。突き詰めて考えると、やはり「意識」というものがどれだけ重要かがわかる。
私たち人間は多分に意識的な生き物であり、意識の重要性は強調してもしすぎることはない。もちろん唯心論に陥ることは避けなければならないが、実践を豊かにし、実践技術を高めていくためには何はともあれ意識をいかように持つかが鍵を握るように思う。
そう考えてみると、教育の要諦は意識の涵養に尽きるのではないかと思えてくる。今は具体的な領域における実践について話をしていたが、意識は霊性や道徳性・倫理性とも密接に繋がっているのであるから、なおいっそうの事、意識を涵養する重要性が浮き彫りになってくるように思う。
もしかすると、日々日記を書き、内的感覚を絵や曲として形にしているのは意識の涵養実践に他ならないのではないかと思えてくる。日記の執筆、デッサン、作曲という三つの領域を考えてみた時に、問題意識を直接的に育んでくれるのはやはり日記の執筆だと実感している。
デッサンにせよ作曲にせよ、それらは新たな問題意識を得るきっかけになったとしても、それを直接的に育んでいくものではないように思える。上述した事柄に一見すると矛盾が含まれているように思えるかもしれないのでもう一度言い換えると、それら三つの実践は意識そのものを涵養することに資することは共通しているが、個別具体的な問題意識を育み、それをより明確なものにしていくためには文章を執筆することが一番有益な手段のように思える、ということである。
例えば、ゴッホを見てみると、彼は弟のテオへ膨大な量の手紙を執筆することによって、絵画の製作技術と製作思想に関する問題意識を絶えず育み続けていた。そこに絵画を実際に描くという実践が加わり、その実践経験から新たな問題意識を感覚的に得て、それを手紙を通じて言語化し、より明瞭な問題意識へと昇華させていった。
言葉を扱う人間にとって、言葉と意識は深く結びついており、言葉の彫琢は意識の涵養へと繋がっていく。そのようなことを再度考えさせられた。
学術機関での探究に窮屈さを感じ、若干辟易していたのだが、科学の分野ではなく思想の分野において、しかもそこに実践が伴うものであれば、やはりそれはまだ私の心を動かす。
今住んでいるオランダという国はとても生活がしやすいため、今後の一つの生活拠点にしたいと考えているが、来年はやはり米国で過ごしたいという思いがある。芸術教育に関する思想的・実践的なプログラムがある大学院に存在していることを知り、その大学院に籍を置くための準備をそろそろ開始しようと思っている。
正直なところもう学位はいらないのだが、学びたいと思うプログラムがまたしても修士課程のものであるため、これから四つ目の修士課程に入学するための準備をする必要がある。今回は米国の大学院に応募しようと思っており、そのためにはGREの試験を受ける必要がある。
これは六年前と四年前に何度か受けた試験だが、TOEFLとは比べものにならないほど難解な試験である。ただし、GREの試験で試される難解な単語を覚えることが私は好きであり、四年ぶりにこの試験に向けた準備ができることを内心嬉しく思っている。
この四年の間に欧州で二つの修士号を取り、その期間における学術的な英語力の進展を測定するという意味においても、GREに向けた勉強を肯定的に捉えている。オランダではごく限られた場所でしか試験を受けることができず、試験会場はアムステルダムに二箇所あるだけのようだ。
早速ETSのサイトから試験を予約し、八月中旬の試験に向けてこれから少しずつ勉強を進めていこうと思う。フローニンゲン:2018/7/12(木)09:40