文章というのは本当に興味深く、一つ前の日記で述べていた通り、一度書き始めると文章が持つ自発的な生成力ゆえに、文章が落ち着くところまでそれが流れていくという特徴がある。単にメモ書きで済ませてはならないものがやはりあるらしい。
メモをするぐらいなら、文章を書いてしまった方がいい。それが原稿用紙一枚ほどでも構わず、原稿用紙の半分であっても構わない。200文字というのは本当にすぐに埋まってしまう。それぐらいに私たちの内側には文字を生み出す生成力が備わっているのだ。
メモとして書き残したいことがあるならばいっその事文章として書き残しておくことをこれからの習慣にしようと思う。メモを書き残す際に感じていた一種の違和感、ある意味それは残尿感のようなものであり、その正体がはっきりわかったと言える。
内的感覚はそれが形を求めた瞬間に、あるべき形として形象化させる必要があるのだ。事実、文章として形になることを求める内的感覚をきちんと文章の形にしておくと、そうした残尿感は消える。
それどこから、次の生成に向けて新たな運動を始めようとするのだから面白い。とにかく文章を書き続けていくことを自らに課す。
一見すると些細なことであっても、それが自らを捉えてやまないものであり、形になろうとしている限りはそれらも文章にしていく。文字と文字にならぬもので内面世界を満たしていく必要がある。全ては文字であり、全ては文字ではないものによって構成されているということを忘れてはならない。
ふと顔を見上げると、先ほどまで一切の雲がなかった空に一片の小さな雲が浮かんでいるのが見えた。まさしく今ここで行っているように、そうしたものを文章として書き留めておく必要があるのだ。
あの雲を見てみよう。ライトブルーの大海に一つだけ浮かぶその雲を見たときに何も感じないはずはないだろう。しかもそれはゆっくりと形を変えながら空を泳いでいるではないか。
自分はこれについて何も書き留めないほどに無感覚の人間ではないようだ。無感覚の人間でなければ、喚起されたものを文字として書き残しておくのだ。
赤レンガの家々の屋根にとまっていた数羽の黒い鳥たちが一斉に飛び立った。鳥が飛ぶのと文章を書くのは全く同じ行為である。「音」も「意味」も同じであるため、同音同義語とみなしていいだろう。
鳥たちの鳴き声に耳を澄ませていると、大地のダンスが聞こえてくるかのようだ。それはとても力強く、それでいて優しさがある。今書斎の中で鳴り響いているベートーヴェンのピアノ協奏曲以上に力強く、そしてそれ以上に美しいと言ってもいいかもしれない。
内的感覚が湧いた都度文章にしておくことの意義については、昨日読んでいたクリシュナムルティの考え方に通じるものがあるように思う。何かを思いつくたびに、そして何かを感じるたびに文章として書き留めておくのであるから、それは必然的に他の活動をそこで一旦休止させる。
例えば私の場合、読みたい書物が目の前にあり、それを読み進めていく中で何か考えが湧き上がっても、読むことを優先させてしまう自分がこれまでいたように思う。だがこれについても改めなければならないだろう。
クリシュナムルティも述べているように、私たちは書物から学ぶのではないのだ。私たちは自分自身から学んでいくのだ。
仮に書物を読む場合であっても、書物から学ぶのではなく、書物を通じて喚起された自分自身から学ぶ必要がある。そのためには、喚起されたものを書き留めておくことがどれほど有益か。また、それをしないことがどれほど学びを劣化させることにつながることか。
自分自身から学ぶということ。それを強く意識して今日からの生活を送りたいと思う。フローニンゲン:2018/7/8(日)08:34
No.1121: ARumbling of the Earth
Japan has recently experienced unusual high temperature and a typhoon that had an abnormal movement from east to west.
I think that such climatic changes are happening all over the world, and I can hear a groan of the earth. Groningen, 09:56, Monday, 8/13/2018