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2803. フローニンゲンという街で生きて


文章はやはり勢いに任せて書いていくのが良いかもしれない。文章には固有の鮮度があり、その鮮度が保たれている間に文章を書き出していくことが大切だ。

書き留めておきたいことをメモしておくことは確かに有益だが、メモをする以上に、書きたいものが現れたのであればそれをある程度のまとまりを持って書き出してしまう方が良いように思えてくる。今日からは特にそれを意識して文章を書き進めていきたい。

メモとして残るのは一行程度だろうが、そのメモを実際に文章の形にしてみようと思うと、必ず何行にもわたって文章を書いていくことになるだろう。なぜなら、文章は常に自己組織化を行っている生き物であるからだ。

一行書けば大抵の場合次の行が生まれる。自己組織化の運動がしかるべき場所に落ち着くまで文章を書き出しておくことは、文章の生成を助けるばかりか、自分の内側の生成運動を淀みないものにしてくれる。

あるべきものはあるべき形であるべき場所まで辿り着く必要がある。文章の執筆に関しても全く同じである。

現在、作曲実践においては過去の偉大な作曲家に範を求めながらそれを進めている。彼らが残した楽譜がなければ、まだ全くもって曲を作れないような状況にある。

つまり、まだ自分の内側から純粋に湧き上がるものだけを形にしていくことは難しく、参考とする曲によって喚起されたものを出発点にして作曲を開始し、さらには曲の構造に関しても彼らのものを参考にしている。

昨日ふと思ったのだが、創造の出発点には模倣が必ずあるが、そもそも模倣をするための技術というものをまずは養っていく必要があるかもしれない。もしかするとこれは以前にも言及したことがあるかもしれないが、創造活動を進めていく時に、模倣の時期は不可避に存在しており、それは型の習得の時期だと言い換えてもいいだろう。

型を型として学ぶための技術なるものが存在しており、それを見過ごす形でいくら模倣を試みたとしても何も身につかないのではないかという考えが浮かぶ。模倣するためにも技術が必要なのだ。それを少しずつ涵養していく時期に今の自分はある。

毎回の作曲実践では特にその点について意識しようと思う。今日これから行う作曲実践はまさにそうした意識をもって取り組む格好の機会になる。

さざ波のような風が一旦休まり、再び波の運動が始まった。雲が一切なく、スカイブルーしか存在しない空。空が空と呼ばれる所以を体現する空が目の前に広がっている。数羽の鳥たちがその空を自由に舞っている。

先日、オランダ人の友人が興味深いことを述べていた。彼はフローニンゲン生まれのフローニンゲン育ちの人間であり、アムステルダムやハーグなどの都市で生活することは考えられないとのことである。

フローニンゲン大学に来てから何人かのオランダ人の友人ができたが、そのうち何名かはフローニンゲンで生まれ、フローニンゲンで育ったという経歴を持つ。彼らは一様にフローニンゲンから離れたくないようであり、中にはフローニンゲンでしか生活を営んだことのない者もいる。

そういえばかかりつけの美容師のメルヴィンも同様だ。彼らの話に耳を傾けていると、その気持ちがわからないでもないということに気づいた。この街には何とも言えない魅力と落ち着きがある。何を隠そう、私もこの街で三年間過ごすことになったのである。

存在を揺するさざ波の流れる街、フローニンゲン。存在を抱擁し、存在を育んでくれる街、フローニンゲン。今私はそのような街で日々生活を営んでいる。フローニンゲン:2018/7/8(日)08:05 

No.1120: Glitter and Light

It started to rain just now.

I was thinking about the glitter of raindrops and the light of this world. Groningen, 09:44, Monday, 8/13/2018

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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