無風の世界を窓越しから眺めていると、この世界がただそこにあるべき形であるということがわかる。世界はあるのだ。
昨日、散髪に行くために街を歩いている最中、この世界の実在性と自己の実在性について考えていた。また、覚醒意識下で「ある」と思っている世界とは別に、例えば夢の世界も含めて、覚醒意識では理解しがたい世界も歴然とあることについても考えていた。
それらは全て幻影的なのだが、幻影を通り越した先にある幻影を生む根源に実在の本質があるように思えてくる。先日、井筒俊彦先生が執筆したルーミーに関する説明を読んでいると、ルーミーが「この世界は『例えば』のような世界なのだ」という趣旨のことを述べていたことが大変面白いと思った。この世界は多分に比喩的であり、比喩そのものなのだろう。
一昨日に、書斎の窓際に小鳥がやってきた時、私はその小鳥をずっと眺めていた。その場から小鳥が飛び立つまでずっとその小鳥を見つめていた。
その最中、小鳥がこの世界にあることについてずっと考えていた。毎回のように、自分とは容姿がまるっきり異なるこのような生命がこの世界に存在していることに対して打たれるものがあった。
見ているものも見られるものも多分に幻影的なのだが、それらを単に幻影であると括ってしまうと問題が起きる。個別具体的な問題についてはここでは取り上げない。
両者を共に単なる幻影だとみなしてしまうと、幻影を生み出す存在者の姿が見えなくなってしまう。存在者と出会うためにはどのような手段が考えられるのかについて考えを巡らせていた。
見るものも見られるものも、それらは幻影であると一瞬宙に上げ、そこから間髪を入れずに二つの幻影を生む存在者の姿を確認しなければならない。これは言うは易く行うは難しだ。
だが、最近この方法がうまく行き始めている。見るものと見られるものという幻影を生む存在者、つまり幻影の創造者の顔を捉えることがここ最近は増えているように思う。
もしかすると、これが俗に言う「一瞥体験」なのだろうか。昨日道を歩きながら、自分がこの世界に確からしくいることを笑ってしまったのだが、そうした笑も一瞥体験の一種なのかもしれない。
昨日はシュリ・オーロビンドの書籍 “The Life Divine (1960)”を読み終えた。本書は1300ページに及ぶ大著であり、ケン・ウィルバーもよく引用に使っていた書籍である。
なぜウィルバーが本書を頻繁に引用していたのかがわかるような、非常に洞察に溢れる記述が随所に散りばめられていた。下線や書き込みの数が、本書が私にとって大変意義のある書籍であるということを物語っている。
本書を読みながら、オーロビンドにせよ、ブラヴァツキーにせよ、ルーミーにせよ、彼らは一様に叡智をその根源の泉から汲み取った媒介者だったのだということに気づく。でなければあのような膨大な仕事を成し遂げることはできないだろう。
ここで彼らの偉大さに気づくと共に、どうやら叡智の源泉というものが存在していることに気づき、さらにはそうした根源に何らかの手段を持ってアクセスが可能だということがわかる。彼らはまさに特殊な認識能力を活用してそこにアクセスし、叡智の泉と自己を媒介させる形で膨大な仕事を残していった。
また何より興味深いのは、例えば三人はそれぞれ異なる仕事を残しているのだが、彼らの仕事をよくよく眺めてみると、それらは必ずどこかで繋がっているのだ。そのどこかがまさに、「叡智の泉」だと言えるのではないかと思う。
この夏、ブラヴァツキーが執筆した1600ページにわたる“The Secret Doctrine: The Synthesis of Science, Religion, and Philosophy (2014)”及びルーミーの詩集“The Essential Rumi (1995)”を読むことによって、叡智の泉に触れるだけではなく、自らがその泉から絶えず真実を汲み取っていく媒介者になる方法を模索していこうと思う。フローニンゲン:2018/7/7(土)07:20