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2791.『「ルーミー語録」解説』を読んで


「あぁ、これまで自分が学んできたことの多くは顕教的学問だったのだ。決して秘教的学問ではなかったのだ」という気づきがどこからともなく降ってきた。

この気づきについてはもう少し説明を加える必要がある。オランダでのこの二年間において、私は形式上は生粋の発達科学の道の上を歩いていた。

それはまさに人間の発達を科学的に探究する道であり、それは多分に顕教的特性を持っていた。オランダでの二年目の学究生活が終わりに差し掛かる頃、もはや私はこうした顕教的な学問にそれほど関心を示していないことに気づいた。

実際には、こうした気づきは昔からあった。そうした気づきは日本の大学の学士課程にいた頃にすでに芽生えていたと言えるだろう。

そこから私は数年の社会人生活を経て、ある種秘教的なものを学びに米国の西海岸に渡り、ジョン・エフ・ケネディ大学に留学した。その頃から既に秘教的なものへの関心が絶えずあり、探究を少しずつ行っていたのである。それがここに来て、形を変える形で一気に吹き上げてきた。

先ほど私は、井筒俊彦先生の 『「ルーミー語録」解説』を読んだ。数日前に偶然にもこのペルシャの偉大な詩人ルーミーと出会った。そして間髪を入れずにルーミーの詩集をイギリスの書店に注文した。

そのような折に、日本語でもルーミーについて調べていると井筒先生の仕事に出会った。幸いにして偶然にも、井筒先生が『ルーミー語録』について解説している文章が手持ちの全集の中にあることを知った。

今日は先ほどその文章を読んだ。井筒先生の解説文を読めば読むほどに、ルーミーという詩人に多大な共感の念を持ち、同時に大きな感銘を受けた。ルーミーはまさしく覚者であった。

井筒先生の解説文を読みながら、欧州での生活を境に突如して吹き上げた創造活動に従事するエネルギーに関する正体が分かってきた。それは端的には、やはり私が以前から自分なりの言葉を当てていたように、この世界の創造を司る基底に自らが触れていることから生じるものだったのだ。

井筒先生の言葉を用いれば、それは「根源的形象の世界」と呼ばれる。この呼び名がもう手に取るようにありありと分かる。

底知れぬ創造の泉から湧き上がる形になろとするものと寄り添いながら生きていくことは何らおかしなことではなかったのだ。そしてそれが形になるために様々な形象方法を必要とすることも実に必然的なのだと知る。

自分の場合、その形象方法は言葉、音楽、絵である。日々、日記を書き、作曲を行い、デッサンを行う形でしか毎日を過ごしていけないというのは至極まっとうな生き方だったのだ。

自分の内側から本流するこの抗しがたい創造の流れの中で形になることを望むものを形にしていくこと。これをとにかく生涯にわたって続けていこうという気持ちを新たにする。

これからまた井筒先生の文章の続きを読み、その後に作曲実践を再び行う。自分の内側で形を待つものに形を与える創造行為以外の事柄に従事するのは本当に今年で最後にしよう。

今年のうちに諸々のことを清算し、創造活動だけに従事する生活に入る。もうその生活には他者も世間も入れないようにする。

人知れないところでただ形だけが絶えず生み出され続けているということだけが自分にとっての最優先事項なのだ。フローニンゲン:2018/7/5(木)16:19 

No.1117: An Effervescent Little Bird

This world is rife with adorable living creatures.

A tiny bird that came to the window of my study is one of those lovely and precious creatures. Groningen, 09:34, Saturday, 8/11/2018

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