今朝の目覚めから二時間ほどが経った。意識は完全に本日の活動に向けて準備が整ったと言える。
今朝方五時に起床した時の朝日をまた思い出している。ほのかに赤紫色を帯びていた朝焼け。それを眺めながら、今日の始まりを知り、一日の活動に向けて何かが静かに燃え上がってくるかのような感覚。
今しがた過去に作曲した曲の編集を終えた。今日のフローニンゲンの晴天と相まって、初夏の祝祭のような感覚を一つの曲が生み出していた。
本当に今日は初夏の祝祭のようだ。祭りのような華やかさは一切ないのだが、非日常的な感覚を私に引き起こすという意味で祝祭だ。
また別の曲を聴いていると、似たような感覚があった。祭りは小波から始まり、その小波が次の祭りの波を生み出していくという実感。
やはり日々は非日常的な祭りの要素を絶えず持っており、小波なのだろう。日常が非日常に思えるということ、非日常が日常に思えるということの意味や意義はどのようなところにあるだろうか。
その意味については述べる必要はないだろう。もはや語る必要のないほどにありありとしたものなのだから。
それではその意義についてはどうだろうか。つまるところそれは、日常と非日常の全的な一致にあるように思える。
あるいは、日常と非日常を超越した場所で日々を営むことを可能にすると言えるかもしれない。今の私はどこか、日常と非日常を超えたところで毎日を生きているように思えて仕方ない。
日常の足音も聞こえるし、非日常の足音も聞こえる。いや、彼らの歌声だって聞こえる。そうした音や声が聞こえることは、自分が両者を超越、もしくは超出していると述べてもあながち間違いではないだろう。
先ほど改めて、学術機関の外で探究することの大切さを思った。既存のアカデミアには自分が探究したいことはほとんど無い。
あったとしてもそれが全くもってつまらない形で探究されている。アカデミアのつまらなさはどこから来るのかも考えていかなければならない。
賢く無能な盲目人が集まると、そこでなされる探究がしらけたものに見えてきてしまう。これは厄介な問題だ。
自分が探究しようとしていることの大部分、もしくは根幹部分が語られることを許容されないようなアカデミアで探究を続けていても仕方ないという潔い諦念の思いがここ最近芽生えた。それはちょうど五月末に行われたアムステルダムでの学会に参加した時のことだった。
一応学会で発表をしたものの、発達科学の優れた学者の発表を聞くよりも、ゴッホの画集を眺めることや意識の形而上学に関する書物を読む方がもっと魅力的であった。また、学会よりも日記や作曲の方がより重要であった。
以前、何かしらの学術機関に再度入り直して音楽を学ぼうと思っていたが、それは本当にやめた方がいいと思うようになった。作曲に関してもアカデミアの外で行っていく。
とにかく外。作られた世界の外で生きていく。
この世界で疎外された人々への共感の念が増していく。ゴッホの手紙に立ち返ろう。そのようなことを考えながら、今日の実践に打ち込んでいく。フローニンゲン:2018/7/2(月)07:27