今ようやく大英博物館を後にして一息休憩を入れている。膨大な書物を一気に読んだ後のような感覚が今の自分を包んでいる。
大英博物館の体験をどこからどのように述べたらいいのかわらかないが、とにかく大量の文献の中に身を置いたような感覚だったと言うのが一番正確だろう。古代エジプト文明、いや古代のアフリカ文明まで起源を遡り、人類が長大な歴史の中で築き上げてきた全文明が一気に自分の内側に流れ込んできた感覚が襲った。
宿泊先のホテルを予定通りに出発した後、開館時刻に大英博物館に到着した。形式的な手荷物検査をすぐに済ませ、並ぶこともなくすぐに博物館の中に入ることができた。
まず館内に入る前に驚いたのは、その外観の立派さである。おそらく古代ギリシャの建築様式か何かが活用された外観であったと記憶している。
私は博物館の外観を見上げるようにして館内に入っていった。入ってすぐさま気づいたのは、この博物館があまりにも巨大だということである。
実際に一切休憩なしに一日をかけて博物館を見た後で言えることだが、もしかすると、二年前に訪れたルーブル美術館に匹敵するぐらいの大きさか、あるいはそれを凌ぐぐらいの大きさであったように感じた。
とにかく見るものが多い。見るカテゴリーも多岐に渡っており、本当に事前に何を見たいのかを決めておかないと、館内であっという間に時間が過ぎていくだろう。本当に迷ってしまうぐらいの広さであった。
大英博物館を訪れたらすぐに気づくだろうが、例えばアメンホテプ3世の巨大な石像や古代アッシリア文明の二体の巨大な人頭有翼獅子像など、どうやって運んだのか不明ぐらいな巨大な所蔵品が数多くある。それに加え、世界中の古代文明の品々を膨大に収集している様子を見ると、英国が保持する底力を見たように思えた。
歴史的に見て、フランスのルーブル美術館に対抗するような意図があったのだろうか。これだけの膨大な品々を収集するためには途轍もない金と権力が必要であろうから、改めて大英帝国の力を見せつけられたような気がした。
冒頭で述べた通り、およそ五時間ほど休憩らしい休憩を取ることなく所蔵品を見て回っていたため、膨大な書物を読んだ後のような感覚がある。そのため、なかなか滑らかに言葉が出てこない。
印象に残っている所蔵品は数知れないが、古代文明の品々を見ていて思ったのは、古代文明の精神性はもしかしたら現代よりも発達していたのではないか、ということである。ここで述べているのは科学文明に立脚するような思考形態のことを言っているのではなく、超越的な世界への認識や死に対する認識などについて述べている。
これは昨年ライデンの博物館を訪れた時にエジプト文明の所蔵品を見た時にも思ったが、古代エジプト人の死生観は現代人のそれよりも随分と洗練されていたのではないかと思われる。
一つ自分が直感的に思っていたのは、古代文明の人間たちが持っていた思想世界はシュタイナーやブラヴァツキーの思想世界と非常に近い、もしくはそれ以上の深さを持ったものだったのではないか、ということだった。
正直なところ大英博物館は何度も足を運ぶことによって少しずつ理解されていく品々が所蔵されている美術館であって、決して一日で全てを理解しようと思ってはならないのだと思う。一方で、明後日にもう一度博物館に訪れようと思ったが、今日得られた感覚が消化されない中で足を運んでも無意味なのではないかとも思う。
無意味というのは言い過ぎかもしれないが、自分の内面世界にとって過度な負担であることは間違いない。そのため、もしかすると明後日に博物館を訪れるのをやめるかもしれない。
博物館の入り口付近で博物館のガイドと大英博物館に所蔵されている作品の詳細な解説書を購入した。所蔵品については英語ではなく日本語で理解したいと思ったため、二冊とも日本語のものを購入した。
今日から少しずつそれら二冊の書籍を眺め、人間の文明の発達史と文明間の連関について理解を深めていきたいと思う。ロンドン:2018/6/21(木)15:46
No.1092: Beatific Life After Death
There is no substitute for the euphoric beauty of the other world.
One of the pleasures for living in this world would be savoring it.
To presume that we cannot enjoy the beauty in the other world can prompt us to stay in this world. Groningen, 10:26, Sunday, 7/29/2018