昼食を摂ってからしばらくの時間、スザンヌ・クック=グロイターの論文の続きを読んでいた。クック=グロイターが指摘しているように、外国語を学ぶことは自己の特性を理解する上で非常に重要な役割を果たすと私も考えている。
それは単に認知的な同意というよりも、自分個人の言語体験に根ざした上での同意である。
外国語を学ぶことは、単に自らの思考のあり方に気づくということだけではなく、自らの日本人性にも気づくことに本質的にはつながる。先ほどの日記で書き留めていたように、ほとんどの外国語学習者は、外国語を通じて自分の世界認識方法を客観的に捉え直したり、日本語空間を対象化させることができない状況にある。
そうした状況に留まっているのであるから、自らの日本人性を理解することなどできなくて当然と言えば当然である。自己を本当に深く知ろうとしたら、外国語を徹底的に学ぶことは必要不可欠なのではないかとここ最近よく思う。
本当にごく稀に、日本語だけを鍛錬し続けることによって自らの思考のあり方や自己の日本人性の本質に気付ける人もいることはいるが、それは本当にごく少数だ。
相変わらず空には分厚い雲が覆っている。ただし、少しばかり日が差し込む瞬間もある。今日は少しばかり不思議な天気だ。
外国語を真に学び始めた時のことを思い出す。私にとってそうした真の外国語習得への一歩は、日本を離れ、身体も思考も日本の外に置き始めて初めてもたらされた。
外国語を真に学び始めた当初は、自分の中にどこか異星人を住まわせるような感覚だった。あるいは、異星人を自らの内側に育み、それと生活を共にするような感覚だ。
そうした期間はおそらく米国で生活した四年ほど続いていたように思う。四年ほどの月日が経ってみると、今度は自分の中に存在していた異星人の感覚が少しばかり変容を遂げたことが印象に残っている。
その異星人すらも実は自己の一側面に過ぎず、同時にそれは自己の本質の一端を担っているという気づきが芽生え出したのだ。欧米での生活も七年目を迎えようとしているが、日本語空間で生活を営む自分も、外国語空間で生活を営む自分も、どちらも共に自己の一側面であり、両者は外見上は異なっていながらも、深層的にはつながっているものだということを知る。
今は両者が同時に自分の内側に居住しており、争いをすることもない。お互いがあるべき場所にしかるべく形で存在している。
この一年の間に作曲実践とデッサンの実践を始めたことに伴い、自然言語を媒介しない意識状態に入ることが増えてきた。そうした状態に日々参入することによって、自分の内側にいる日本語空間を司る自己と、外国語空間を司る自己の存在の在り様と意義はまた変容していくだろう。
自然言語及び自然言語以外の言語手段による意味の創造と自己表現、そして意識の在り方とその発達というテーマは非常に興味深い。今後も自らの経験と照らし合わせながらそれらのテーマについて継続的に考察を深めていきたい。フローニンゲン:2018/6/17(日)13:52