時刻は夕方の七時半を迎えた。今日は天気予報の通り、午後から雨が降ってきた。
ある地蔵がこの現代社会の何かに対して嘆き悲しんでいるかのような雨だった。今は雨が止み、曇った空が一面に広がっている。
ここ最近発達研究への不信感が募る。カート・フィッシャーのダイナミックスキル理論を例に取ってみると、それは私たちの能力の発達プロセスを説明してくれるのだが、そもそもある能力領域に私たちが関心の目を開いていく要因やメカニズムについてはほとんど何も説明をしてくれない。
既存の発達研究においては、ある領域の能力を措定することによって始めて研究や説明が生まれる。私が興味を持っているのは、そもそも人間がそうした一つの能力領域にまるで引き込まれるかのように関心を持ち、その領域を一心不乱に探究していく現象を生み出すものにある。それを人は素質や個性と呼ぶのかもしれない。
先月末にアムステルダムで参加した国際ジャン・ピアジェ学会での体験は自分の目を見開いてくれるものだった。結局、発達研究者というのは、「発達研究という名のゲーム」に盲目的に従事しているに過ぎないというある種の醒めを経験した。
各研究者の情熱と功績に敬意を払いながらも、私は彼らの盲目的な純朴さに少なからず落胆をした。「学者とは知性の高い頓馬なのだ」という言葉を頭の中で何度も唱えていた理由が明確になりつつある。
彼らはそもそも自分が従事している研究という一つの狭いマトリックス世界の中の住人に過ぎず、マトリックス世界を対象化するほどの認識力を持ちえていない純朴な人間なのだということを突きつけられたような気がした。
人間発達とそれを取り巻く現代社会そのものを考察していく際に、発達科学は確かに重要な役割を果たすが、いつも肝心なことを説明してくれない。それが何かについては間接的に何度もこの日記で説明している。
発達研究の枠組みでは埒があかないというのが正直な気持ちだ。発達研究に純朴に打ち込む研究者たちの姿を認識できてしまった瞬間に、それはもう自分がそのマトリックス世界で生きていけないことを示唆しているように思える。
科学的な発想と手法にのみ立脚するような探究からはもう抜け出そうと思う。これは以前から思っていたことであり、過去の日記でも言及していたことだった。だが今日改めてその思いをいっそう強くした。
今日はこれからエリック・サティの手紙を読む。先日ドイツのアマゾンで購入した“Satie: Seen Through His Letters (1989)”を読む。
この書籍と合わせてゴッホの手紙も読んでいく。サティにせよ、ゴッホにせよ、彼らは当時の社会から疎外された異端児であった。自分がなぜ彼らの生き方と生涯に関心を持っているのかはもう明らかだ。
天国のように思えた夢が醒めるとき、そこに待っていたのは地獄のような荒野であった。私たちが真に醒めを経験するというのはそういうことを意味するのだろう。
その荒野に水はあるのだろうか、花は咲いているのだろうか。夢の中を歩いていたときには感じられないものがそこにはある。荒野を歩くにつれて、初めて自分の足で歩いているという確かな感覚がある。フローニンゲン:2018/6/14(木)20:09
No.1071: Affection from the Sky
Today looks like as if the sky poured affection on the ground, though it should be everyday; our feeble minds don’t recognize it, which is unfortunate for us. Groningen, 08:17, Tuesday, 7/17/2018